島日和 <ひょうたん島後記>

            8-2021  池田良


ふと気がついたら、月が僕の家の中に住みついていた。

なんだかとても密やかに、自然に、そこにいるものだから、僕はなんとなく知ってはいたけれど、ちゃんと認識していなかったのだ。
月は銀色や金色に鈍く光って、リビングの空間に浮かんでいたり、床に転がっていたりする。
僕はこの頃、色々なものをとても愛しく思うようになってきているので、そんな月を見て、なんだか気儘で、かわいいなあとニヤニヤしてしまう。

家の中の月は、ペットのように、人間のいる所についてくる。
だから夜は、照明いらず。僕は、少しほの暗くて大きな月の光で、晩ごはんを食べたり、テレビを見たりする。

月がいると、家の中は妙に静かだ。
空気もひんやりと寡黙になるから、僕はテレビの音だけを消して、画面を見ながらごはんを食べる。・・・一人で食事をするのはさみしいから。
知らない人がテレビの中で、僕の友人のような顔をして笑っている。

「あれ、どうしてここに月がいるの?」
窓から部屋をのぞき込んだネコが、すっとんきょうな声をあげた。
「どうやって月をつかまえたの?」
ネコは家の中に入ってきて、手足をぶるぶるっと震わせた。
「気がついたら家に居たんだよ。もっと、だいぶ前からいたのかもしれないけど」
「へえ。そんな事ってあるのかしら。月をつかまえる人って、皆、とっても大変なことだって言いますよ。
呼吸を整えて、慎重に、慎重にやっても、失敗してしまって、草原中が、砕け散った月の破片で、何か月も昼のように明るくなってしまったり、湖に落ちた月を引き上げるのに、何日も何晩もかかってしまったり、なんてね」
そう言いながらネコは、床に転がった月の周りを、グルグルと妙な角度で回る。何だか、変な歩き方だ。大丈夫かしら。
そして案の定、足先でツンと、月を撫でた。
「触らないで」
僕がびっくりして注意すると、ネコは、しんなり笑った。
「大丈夫ですよ」
ネコはこっそりまた触るに違いない。
ネコは、何でも触らないではいられないのだ。
「触ってみなければ、その、本当の姿は解らない」

月はたぶん、昔この家に住んでいた人が捕まえてきたものなのだろう。それが、その人が忽然と姿を消した後に、他の家具や、本や、レコードと一緒に残されていたのだ。でもまさか、月があるなんて、思ってもみなかったから、僕には見えなかっただけなのだ。
人間が見ている時にだけ、月はそこにある。
人間が見ていなければ、月はそこにない。

「いいなあ。家の中がいつも月夜の晩だなんて」
そう言いながらネコは、自分で持ってきたおみやげのブラックベリーをペチャペチャと食べて、口のまわりを赤紫にしている。
僕たちは口紅を付けたような赤い唇で、月明かりの夜のお茶会をした。
「でもね、家の中の月あかりは光が目に入って、まぶしすぎる時があるの。そんなときはね、ほら君のくれたキャップを深くかぶって、本を読むんだよ。ほらあの、メトロポリタンオペラのおみやげの」
そう言って僕は、ライトスタンドに掛けてあった赤いキャップを被って見せた。
「ふふふ、それは素敵。やっぱり思った通り。よく似合う」

それから僕たちは、月を手押し車に乗せて、川辺に繋いであるボートまで運んで行った。
月と一緒に、夜の散歩。
月は、まるでビニールで作った風船のように軽かった。

月を小さなボートの真ん中に乗せて、僕たちは、ボートの前と後ろに寝そべって、海へ向かってゆっくりと川を下って行った。
涼しい風がそよそよと吹いている。
赤い大きな鳥が僕たちの上でくるりと輪をかいて飛んで行った。
ネコがボートの舳先で、気持ちよさそうに唄を歌う。
蘇州夜曲
川を下って行く小舟にはぴったりの唄だ。
とろんとしたその甘い旋律を、ネコがかなり調子の外れた音程で歌っているのを、僕は愛しく思って、秘かにニヤニヤしてしまう。
小さな舟は、朧に光る月を乗せて、のんびりと流れていく。

波のない、湖のように静かな入り江にたどり着くと、水平線の上に、登り始めた大きな月が、ぼんやり光っていて、海が乳白色に染まっていた。

「あんなところに大きな月が」
ネコが、舳先に立ち上がって、海の上の月を指さす。
ぼうっと澱んでむくんだような風景が、大きく揺れて広がっていく。
「大丈夫。あの月とこの月は、違う世界にいるのだから」

美しい風がそよそよと吹いている。
やさしい匂いと、きめ細やかな肌触りの、とろんとした、やわらかく甘い風が。