島日和<ひょうたん島後記>

           5-2021  池田良

僕はこの頃、右の耳がほとんど聞こえなくなっていて、指を入れてみると、あきらかにその穴がむくんだように狭くなっている。
そして狭くなった分、空気が通る時少し奇妙な音がする。
その音は、風が通り抜けるような音ではなくて、外から聞こえてくる音でもなく、体の中から聞こえてくるような音なのだ。

何かの通信音? 脳細胞の軋む音。 眼球の裏から染み出るねばった涙のぬるりとした音。 それとも、聞こえない右耳が聞き逃してしまった、大切なあの人の声?

草原の端に近頃、木を組んだ小さなテラスの付いた可愛らしい家が出来上がって、家の前には「草屋」と書かれた小さな看板が出ている。
「草屋」。何を売る店なんだろう。普通の家のように見えるけれど。カフェなのかしら。
僕は何回かその前を通り過ぎた後、ある日ふっと、吸い込まれるような感じで、その店に入った。

やっぱりカフェだ。
真ん中に大きなテーブルが置いてあって、回りにぐるっとイスが並んでいる。しかも床が、ふかふかの草地だった。

店の奥に、ウサギ耳の帽子を被った女性がいて、ニコニコとこちらを見ている。
「いらっしゃいませ。今日はステキなお天気ですね」
そう言って彼女は、つぶやくように、ひとりごとを言うように、小さな声で語りかける。
「若葉がキラキラして本当にきれい、・・・とても気持ちのいい日だわ」
うきうきしたやさしい声で、歌うように、微笑むように。
よく見ると、赤っぽい眼球がウサギのようだ。
本当にウサギなのかしら。

「お茶を頂けますか?」
テーブルの上には、たくさんの草花を飾った大きな水盤が置いてあるだけで、メニューもないけれど、僕は思い切ってたずねてみた。
「はい。でも今日のお席はね、外のテラス席だけです。ここのテーブルも、地下のお席も使えません」
外のテラスには小さなテーブルが一つ、もうすっかり葉桜になった大きな桜の木の下にあって、イスが二つだけ置かれている。

僕はその一つの、赤いイスに座った。
目の前は草と木々の新緑の海だ。
「あら、やっぱり赤いイスがお好きなんですね」
彼女はひとり言のようにそう言って、テーブルにメニューを置いた。
そこに書かれてあるお茶は草茶ばかりだ。
タンポポのお茶、ヨモギ薬草茶、スミレの生茶、つゆ草の月待茶、ヘビイチゴの一夜茶、・・・
「すべてのお茶に、その草花で作ったお菓子が付きます」
どれも面白そうだなあと思いながら、僕は一番気になった、ヘビイチゴの一夜茶を注文した。

そして、待つ間、耳を研ぎ澄ましてウグイスの声を探す。

運ばれてきたお茶は赤い色をしていて、なんだかブラッドオレンジのような匂いがした。
ついてきたお菓子は、小さなショートケーキのようで、可愛らしいヘビイチゴの赤い実が、ミニチュアのように乗っている。
彼女は、僕のとなりの緑のイスに座って、小さな声で歌うようにつぶやく。
「マスクは決して外してはだめですよ。お茶やお菓子を口に入れる時だけ、息を止めて、マスクをずらしてね。そしてお口に入れたら、すぐまたマスクをしてね」
僕はちょっとぎょっとしたけれど、彼女の言うようにお茶を飲んだ。
彼女はずっと前を向いたまま、にこにこと微笑んでいる。
新緑の草も木々もまぶしいように輝き、若葉のむせかえるような匂いが、空間いっぱいに溢れて、マスクの中にも浸み込んでくる。
「楽しまなくてはだめよね。この日々を楽しむの。今は我慢してじっと耐えようなんてしていてはだめですよ。今が、これからはずっと続くかもしれないし」
そう。そしてもう来年には、世界が終わるかもしれないし。

赤いお茶は、やっぱり少しオレンジのような味がして、セージやラベンダーのような香りもする。
僕はなぜかわからないけれど、遠い昔に一度だけ一人で訪ねた、スカボロフラッグというアメリカの田舎町を思い出した。たった一時間ほど、人けのない水辺の荒れ地を歩き回った町。染み入る様な、深い恐怖を感じながら。

地球を旅していると、訳もなく、妙な恐怖心を感じる場所や建造物などに、突然出会うことがある。
その恐怖の意味は分からないけれど。

この頃僕は、かなり大雑把に世界と向き合っている。
目や耳や鼻から入ってくる情報は、以前よりもぼんやりと霞がかかったようなノイズを感じるから、その一粒一粒の声よりも、僕の知りたい宇宙の声を探しているのかもしれない。

宇宙を突き抜ける、くっきりと誠実なウグイスの声

そして僕は、色とりどりの野の花を編み込んだ草のタピストリーを買って、草屋のカフェを出た。