島日和<ひょうたん島後記>

                  8-2020

もう梅雨は明けたはずなのに、すごい湿気。
指先からも、唇の先からも、ぎゅっと押すとポトポトと水が滴り落ちる。
ちょっとした温度差でメガネはすぐに曇って視界不良になるし、目の中もビチャビチャの水浸しになるから、訳も分からないまま悲しい気分がわき上がる。

それでも水路になってしまっていた道路は少しずつ回復して来ていて、長靴を履けば、ぴちゃぴちゃと歩いて行けるようになった。
今、朝は毎日深い霧だ。
すべての物をやわらかくフワフワと包み込む霧が、世界を別の世界へと変えてしまう。
毎朝霧が晴れるたびに、世界は奇妙にずれていて、でもそれを認識する人はほとんどいない。
かすかな眩暈や頭痛を感じる人は、ほんの少しいるけれど。

霧がとても深い朝に、ネコがやって来る。
ネコは色々な色の布を継ぎ合わせて作ったカラフルな帽子を被っていて、その垂れ下がった先端には、シャンシャンと鈴が鳴っている。
「ネコに鈴なんて、それじゃ、僕はここにいるよって知らせてるみたいで不便じゃない?」
僕は笑って、思わず言ってしまってから、久しぶりに会ったネコにちょっと失礼だったかなあと思った。
「だって、この頃霧がなかなか晴れないじゃない?だからかえってこれがあると、ちょっと安心なの。ここに僕がいますよって、分かってもらえると思って」
自分の存在を知ってもらえている方が安心できる。不安の中にいると、そんな気分にもなるのかもしれない。
「それにほら、この音、身に着けているととても楽しいですよ」
そう言ってネコは、シャンシャンと踊りながら僕の周りをくるくると回る。

ネコはとてもダンスが上手なのだ。
白樺の林の中で、白いドレスを着て、僕のためにダンスを踊ってくれたこともある。
ネコのダンスはとても優雅で美しい。
僕はいつか、月夜の晩に、ネコにエスコートされて一緒にダンスを踊ってみたいと思っているのだけれど、なかなかそれを言い出すことが出来ない。
何といってもネコは、ナルシストだから。

「ずいぶん久しぶりだけど、君は何をしていたの?」
僕がそうたずねると、ネコは踊ることをやめて、ぽつんと立ち尽くす。
「僕はずっと、ひっそり息をする練習をしていました。静かにそっと。息をしていることがバレないようにね」
「それなら、僕はとても得意だよ。僕の呼吸はとても浅いから」
僕は深呼吸ができない。
深い呼吸をする練習をしようとすると、息の仕方を妙に意識してしまって、呼吸困難になってしまう。
だから僕は、そっと静かに、浅い呼吸をする。
自分に、息をしていることがバレないように。

気が付くと、シュワシュワと音を立てて霧がゆっくり晴れてきている。
「あなたはずっと何をしていたの?」
ネコはそう言って近づいてくると、何事もないように手をつないだ。
僕はびっくりしてしまって、ちょっと変な答えをした。
「ずっと、ネコに会いたいと思っていたんだよ」
「そうなの。僕たち、もっと早く会えばよかったね」
そう言ってネコは、手をつないだまま僕の方を見ないで、風の方を見つめて話をする。
「僕たち、なんだかとってもおかしなことをしていたんじゃないかしら。 何のために生きているんだか分からなくなるようなことを」

風はとてもやさしく吹いている。
ときどき、不思議な匂いのする濃霧を混じらせながら。
僕たちはぎゅっと手をつないだまま、きめこまやかな風の肌触りを楽しんでいる。
唇の先や指先から、ポタポタと霧を滴らせながら。
とても満たされた気持ちを、共振し合いながら。