島日和<ひょうたん島後記>

             10-2020

ネコは、僕の腕の内側のやわらかい皮膚の匂いをちょっとかいで、ざらざらした舌でぺろっとなめる。
僕は何回なめられても慣れなくて、そのたびに少しギョッとする。
そして同時に、少し楽しくもあり、嬉しくもあるのだ。

僕の体の一番シンのところには、永久凍土のように冷たく固まってしまった寂しさがあって、この頃たまに、それに耐えられなくなる時がある。
初めてネコに、ぺろっと舐められたとき、僕は、もしかしたらネコが僕の寂しさのかたまりを、温めて溶かしてくれるかもしれないと思った。
でもだめだったのだ。
ネコはやっぱりネコなのだから。
決して人の心を抱きとめて、悲しみを溶かしてあげたいなどと思ったりはしない。
ネコはいつも自分のことで頭がいっぱいで、自分のやりたいように生きていたいのだ。

だから僕のバースデーパーティーのときにも、
「僕は薔薇色の薔薇が好きだよ」
と伝えて、百本の薔薇が飾られた部屋をちょっと期待したりしていたのに、ネコが飾ってくれたのは、森の中で見つけてきた野草の花。そして、
「僕の好きな花なの。趣味がいいでしょ」
と得意そうにしている。
でも、仕方がないのだ。
ネコはやっぱりネコなのだから。
そしてつまり、そんな所が、ネコのいいところなのかもしれない。
僕にとってのネコの不思議な魅力は、その生き急ぐような勝手気ままさ、甘く切ない支離滅裂さ、なんかから生まれてくるのかもしれない。

風がすっかり涼しくなった秋の午後に、僕はネコと、テラスのテーブルでお茶を飲む。
お菓子は、ネコの手作りのチョコレートブラウニー。
ちょっと苦めで、しっとりと美味しい。
庭は一面秋の草花で覆われ、空気は秋のいいにおいに満たされた金色。
キラキラとした太陽の光が、うっすらと広がる霧の粒子に反射して、空間全体がチカチカと美しく光っている。
「この頃いつもなんとなく、薄い霧に覆われている。目に見えないくらい薄い日もあるけど、いつも霧の匂いがしていいますよ」
ネコは、お茶の中に浮かべた砂糖漬けのオレンジの薄切りをペチャペチャとかみながらおしゃべりをする。
「世界中でもいつもこんな霧が出ているらしいですよ。それで怖がって外に出ないようにしている人がいたり、マスクが流行ったりもしているらしい。あのね、マスクをしたままキスしたりしている恋人たちもいるんですって。ふふふ」
「ネコは知らないかもしれないけど、何十年か前にもエイズという病気が流行ってね、それは人と人が愛し合うとうつってしまう病気なの。それで、人に触ったりすることも避けてしまうような人も現れて。なんて残酷な病気なんだろうって、僕は思ったよ。だって人にとって一番なぐさめられることは、人とふれ合うことでしょ」
すぐそばに座って気持ちを伝えあったり、抱き合って相手の心を見つめ合ったり。
それは電話やメールじゃだめなんだ。何気ない言葉のニュアンスがちゃんと伝わらなくなってしまったりするから。
一緒に居れば、手をふれ合っただけで、小さな冷たい氷のかたまりなんて、アワのように簡単に溶けていくのに。

「僕はね、オレンジとチョコレートの組み合わせが大好きなの。とっても合うでしょ?」
ネコはそう言って、クククと妙な笑い方をしながら、おかわりしたお茶にオレンジの砂糖漬けをひらりひらりと入れた。
遠くに見える海はクリームのような乳白色に輝き、ゆっくりと現れた大きな満月は、だんだん金色をおびて輝き始める。

「この頃動物園ではね、ライオンが増えすぎちゃって、10万円で売買しているんですって。ペットショップのネコより安いんですって。ふふふ。
・・・僕はねえ、月のウサギのような存在でありたい」
そう言ってネコは、落ちてきた月の雫をお茶のカップに受け止めて、ゴクリと飲んだ。