9-2023 池田良 もう夏も終わりだというのに、まだ空気はもわもわと暑くて、台風が送り込む大量の水蒸気が島を包み込み、その暑い湯気の中で皆は声もなくひっそりと呼吸を繰り返す。 遥か南方の海上に渦を巻く台風の匂いがもうかなり強く漂っている。 僕は乾燥に弱くて、冬になると息をするのもつらくなある時もあり、湿度百パーセントの時は、まるでキノコか苔のようにうっとりと夢見心地になるのだが、いくらおしめりな日が好きと言っても限度というものがあるもの。 こんなにぐし
8-2023 池田良 ネコの家の一番奥、日の当たらない小さな書斎の棚の上に、古びたバンドネオンが、ひっそりと置かれてある。 ネコは昔、バンドネオン奏者だったそうで、音楽家たちと楽団を組んでは、街から街へと汽車を乗り継いで、旅をしていたそうだ。 「貧しい楽団だったけれど、楽しい旅の日々でしたよ。いろいろな所で演奏してね。港町の大きなデパートの片隅の小さな会場とか、雪国の古い造り酒屋の主人が始めた、ハイカラなビアレストランとか、セロ弾きの少年紳士と仲良くな
7ー2023 池田良 ずいぶん長い間、雨が降り続いた。 こんなにたくさんの水をいったい何処にためておけるのだろうかと、僕たちは空を見上げてはため息をつくばかり。 ネコは雨の日はあまり外にも行けず、いらいらとした様子で部屋の中をぐるぐる歩き回り、長椅子に座ってパズルをしている僕の頭の上をぴょんぴょんと飛び越えてみたりして気を紛らわせていた。 久しぶりに晴れた朝。ようやく雨のシーズンが終わったのだろうか、それともほんの中休み? 庭の草は雨の残りの露をたっ
6-2023 池田良 小さな明かりを、家の中にも外にも、あちらこちらにたくさん灯している。 雨の降り続く暗い日々には。 それが優しく、心を温めてくれるから。その温かさが、気持ちをゆったりゆたかにしてくれるから。 小さな明かりは可愛らしく輝いて、僕の心を楽しい方へと導いてくれる美しい力がある。 ・・・でも、それは本当に深く寂しい時には、より悲しい方へと心を引きずり込む、ほの暗い力でもあるのだけれど・・・ 僕は今はもう、ずっと上手に小さな楽しみを身にまと
5-2023 池田良 地面の下の世界は、どろどろと揺れながら移動している流動体なのだろうか。 たくさんの球根たちが、庭の土の中をその年の気分で、あちらに行ったりこちらに行ったり。去年とは違う場所で、爆発するように咲き誇ってみたり、知らんぷりで葉も出さなかったり。 僕の庭は今年、フリージアの花の群生で、むせかえるような色と香り。 こんなにたくさんの球根がどこから移動してきたのだろう。それとも今まで、何年も何十年もぐっすりと眠り続けていたのだろうか。
4-2023 池田良 電子レンジが壊れてしまってから、もう何か月。 掃除機もあまりの吸い込みの悪さに使っていない。ケイタイも、「そんなに電話に出ないなら必要ないでしょ」と、ネコに契約を解除されてからそのままだし・・・。 それでも僕は困らないのだ。持っているのが当然のようなものたちが僕にはなくても。僕は楽しく暮らせている。 蒸し器からはいい匂いの湯気がしゅわしゅわと上がって台所をやさしく包み込み、かわいい刺繍の箒は音もなく部屋を清める。ケイタイがなくて待ち合
3-2023 池田良 空気の中に、色々な花の匂いが混然一体となって溢れている。 なかでも抜きんでて強いそれは沈丁花。 広場いっぱいにたくさんの花や木の苗が並んで、食べ物や雑貨の屋台も一緒に、どこからともなく花市がやってきたのだ。 ずいぶん久しぶりのような気がする。 「この前花市が来たのはもう7,8年くらい前じゃないの?」 そう言ってネコは、花の苗の間をしゃなりしゃなりと歩き回る。 「・・・やっぱり、野の花の匂いよりきつい」 島の人達は、春の暖かさと花々
2-2023 池田良 カーテンの向こうが仄かに白くなってくる明け方に、僕はうとうとと、眠りと覚醒のあいだをさまよい、夢を創造しているような時を過ごす。 それは、鈍く光る古い金屏風の前を、揺れる蝋燭の明かりを手にゆっくりと進んで行くときの浮遊感。事実ではない幼い頃の思い出。他人がのぞき込んでいる僕の日々。僕が作り上げた僕の過去。 子供の頃の思い出は、甘くて苦い丸薬の味がする。 子供は大人よりも工夫のない、むき出しの感情表現をしてしまうから、僕は、小さ
1-2023 池田良 冬の幸せは暖かいものに包まれる幸せ。 陽だまり、熱いオフロ、スープ、ストーブ、ふわふわ毛布。暖かい毛布は、敷き毛布にも掛け毛布にもして、その間に挟まって僕は冬眠をする。何だかミノ虫みたいと、ちょっとひとり笑いして。 この暖かさがあれば、分厚い雲が心に重くのしかかる、雪が降り止まない日々でも、嵐のような北風が嬌声を上げて庭を走り回る日々でも、ぬくぬくと幸せに包まれて高みの見物をしていられる。 勝手にやってくれ。吹雪でも破壊でも争いでも
12-2022 池田良 僕はネコと一緒にいることがとても心地いい。 僕は、ネコに特別これといった魅力を認識できないのだけれど、その穏やかな呼吸が一緒にいて心地よく、僕の呼吸と、合っているような気がするのだ。 だからなんだかんだ言ったって、僕はきっとずっとネコと一緒にいるのだと思う。 たとえ嵐のようなつむじ風に巻き込まれて、どこか知らないところへ飛んで行ってしまったとしても、いつでも、やっぱりネコのいるこの島へ戻ってくるのだ。 ・・・もしかしたら、ここにい
11-2022 池田良 ネコが、僕の家の周りの草原の中をぐるぐるぐるぐる勢いよく走り回っている。 何をしているのだろう。 ネコはよく、何を考えているのか僕には理解できないことをしている。 「別に何もしていませんよ。リラックスして、筋肉も脳ミソも力を抜いてぼうっと集中していれば、うまくいくことはたくさんあるって言うじゃない?その練習をしているだけです」 それで何も考えずに走り回っているの? この頃、秋も深まって、もう風はだいぶ冷たくなってきている。 草の
10-2022 池田良 気が付かないうちに、体の中では色々なことが起こっていたりする。 エンピツを持つ指がギシギシと音を立てていたり、耳の中で言葉がこだまのように響き合っていたり、目のはじで風景がキラキラとまぶしく揺らめいていたり、寝返りを打つと夜がぐるりと回転したり。 そしてそれは知らないうちに、またひっそりと消えていたりもする。 これは何なのだろう。 この世界の時間の、うすら笑いや思い出の仕業?それとも細胞の見る夢? ソファーの上でネコが気持ちよさそ
9-2022 池田良 海を見下ろすデッキへと出る、大きなガラス扉の向こうに、ひときわ高い竹が一本生えて、ゆったりと風に揺れている。 竹は斜面の下に生えているから、ガラス扉を通して僕のリビングから見えるのはその繊細な上層部分で、優雅なしなり具合が美しい。 夏の始め頃には、海の風景の邪魔になると思い、切ってしまおうかしらとも考えたけれど、ヘビが怖くて草がおい茂った斜面の下に下りていけなかった。 そして、秋になったらネコに切ってもらおうなどと思っているうち
8-2022 池田良 地球のはしのヘイの上に腰かけて、足をフランフランと揺らしながら、アリスはガムをくちゃくちゃ噛んでいる。ウサギはどこへ行ったのだろうと思いながら。 あたりは一面草の海。 空はまるで水彩絵の具で描いた空のように、青くて静かだ。いくら夏休みだからといったって、雲がひとかけらもない空なんて、なんだかやっぱりあやしい。 ウサギを見かけなくなって、もう3年ほどもたつだろうか。 奇書の中から飛び出してきたような、支離滅裂のナルシスト。ウサギは
7-2022 池田良 僕はこの頃、とても寒がりになったのかもしれない。 今年の冬テレビが、体を暖かくしていないと免疫力が下がってしまいますよ、免疫力が一番大事ですよ、といつも言っていたから、僕はすっかり厚着の癖がついてしまって、少しでも涼しいと、セーターを重ねてしまうのだ。もう夏だというのに。 リビングのイスの上には紫色の薄手のセーターがいつも置いてあって、少しヒンヤリした朝や、少し淋しい夕方にそれを羽織ると、温かいお風呂や優しいフトンにくるまれた
6-2022 池田良 美しい雨が静かに降り続いている。 もう何日も何日も。 時折雨空が明るくなって、なつかしい青空がほんの少しきらりと現れてみたりもするけれど、雨はまた降り続いて、やむことを知らない。 島中の草は暖かい雨をごくごくと飲み込んでジャングルのように生い茂り、島民の小さな家々はすっかり草の中に埋没して、夜になってかすかに明かりが見えても、どこがどこだか、誰が誰だか。もうお互いの家を訪ねるのも至難の業。 こんなに雨が降り続くと、僕も少し不