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ほんのりグレーな、聴覚障害と宗教のはなし。

※これはあくまでも個人的な意見と解釈です。特定の宗教をアレコレ言ってません。
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なんでみんな宗教の話題をそんなにタブー視するんだろう。

(わたしは仏教と神道と八百万の神をなんとなく信じてるだけのふんわり宗教観を持っていて他の宗教に関しては軽い知識のみ触れてるふんわりゆるゆる系です)

世間一般的には、初対面にて「宗教」と「政治」(あと「野球」)の話題はタブーでその話題は避けたほうがいいと昔からよく言われている。

デリケートな話題であるがゆえに安易に発言してしまうと争いになりやすいから、なんだろうけど。なんだろうな。

もっと少しずつオープンに話してもいいのではないか、とおもうのです。

個人的にはわりと障害と宗教の関係性って密接的だとおもっている。とくに、いろんな映画を見ているとそういう暗喩的な表現がある。

ここでならなんとなく書けそうなのでノリで備忘録として記す。


「あなたはろう者ですか?」

「わたしは手話ができます。」


の後に、

「あなたは神を信じていますか?」


と、”宗教に勧誘された”という経験がある聴覚障害者はかなり多い。と思う。多分。体感7割。あしゅらん調べ。

「知らない人から突然手話で話しかけられて、めっちゃ手話上手いな〜って思ってなんとなく話聞いてみたら宗教勧誘だったってオチ〜!」(ドッ ワハハ)

なんて笑い話も割とよくある話で、宗教に関する批判(という名の愚痴)を聞くことも少なくはない。

“宗教勧誘したい彼ら”にとっては、手話は勧誘する上でのただの手段に過ぎないのだが、余暇的な趣味として手話を勉強するような人たちとは違い、比較的至って真面目に驚くほどのモチベーションを保って勉強に励んでいるのでかなり、流暢に手話を話してくるのである。ヌルヌル。怖

なぜ彼らは「聴覚障害者」に手話で話しかけるのか。

それは「障害」を持っているが故に、構築されやすい環境と人間関係に目をつけているから、と思われる。

クロージング的な環境だとネットビジネスが捗るのと同じように、聴覚障害所以で構築されやすいクロージング的な環境には、宗教の構造にも通ずる部分が多くみられている。

「類は友を呼ぶ」

耳から他の情報が入りにくいという特性は彼ら(勧誘側)にとって不利益な情報を省く手段が限られているとも言えるし、「鴨」にしやすいとも言える。

彼らが提供する価値観や成功体験は安易に伝播し、似た価値観やそれらに共感、同意できる人が集まりやすくなる。

同じものを好きでいること、信じることは無条件で信用の担保ができてしまうものだ。みながみな違うことを恐れ、成功体験があればそうなりたい、と縋ろうとするのだろう
ここでほんのすこしわかるのは、”にんげんは何かに縋ったり群れないといきていけないいきもの”でもあるということ。

かの一世を風靡したネットビジネスも、宗教も、その特性を活かしているもので、聴覚障害界隈の中では一部かなりズブズブで沼になってるところもある。知らないとうっかり踏み抜く。怖

50年ぐらい前からある老舗感溢れるネットビジネスの団体なんてのもあり、高齢者(60代〜)の聴覚障害者たちはその団体名がかなり知れ渡っている。
限られたコミュニティの中では自衛における伝統的な話題(と言う名の注意喚起)としても語り継がれやすいだろうし、今と違って昔のLINEやメールもない中では非常に濃いコミュニティ形成が成されやすかったのかもしれない。


…ここまでは、まだよくある話なのだけれど。

実は「宗教的観念」の面においては障害者にとって逆に利点となる場合も多々あり、全てを否定し切れるわけではない。

「弱者が助けてもらいやすい環境」も宗教が大いに関わってきている。

それは宗教系の大学などでかなり顕著に表れ、「隣人を助けようとする意識」が強く出やすくなるのである。

そのような大学では、障害を持つ学生に対する支援機関が設置されやすい傾向にあり、特に、聴覚障害者に目に見える情報(文字や手話)を提供するサポート、「情報保障」のシステムが既に出来上がっているのはそういう大学が先進的である。

「情報保障について大学側に交渉すると怪訝な顔されることが多いけれど…宗教系の大学なら情報保障をきちんと考えてくれるかもしれない」と期待して入る人も少なくはない。
聴覚障害者の大学選びには情報保障の有無がかなり大きく関わってくるのである。


「捨てる神あれば拾う神あり」(?)


…そういう風に上手く世の中が回っている部分は、ある意味長い歴史の中での1つの生存戦略みたいなものとも言えよう。

これが社会にとって正しい形なのかはわからない。むずかしいね。



2020春に公開された頭がお花畑のカルト的な映画「ミッドサマー」では障害者が教祖として崇められていたし

「一般人で且つ普遍的だと思っている」ものから遠い所にいる人間(存在)は尊く見えやすくて、本質とはかけ離れて歪んで見えやすいものなんだろうけどさ〜。
なんだろうね〜。

モヤ。

モヤ。


はい。ほんのりグレーな話題でした、とさ。

「政治」「宗教」の話題をタブー視することで守られているものもあるかもしれないけれど。
それ以上にその話題がもたらすもの、さまざまな良い影響、悪い影響までも不透明になって見えにくくなってはないのだろうか。

なので。
少しずつ、オープンになってほしいな、と思うのです。




そういえばイタリアに旅行に行った時、船乗り場で近くに座った老婆からたどたどしいイタリア語の文を紙に書き留められて、
それを一文字一文字Google翻訳で調べたら

「あなたたちは神に見守られている。神は助けてくれるから。今は苦しいけど神を信じれば救われるわ。」


的な文でクソムカついたのを思い出した。


イタリアの映え映え観光でウキウキしていた気分が一気に冷めたんだよな


特に最後の一言が非常に余計だった。




「神を信じれば 聴こえるようになるよ」



うるせ〜〜〜〜!!しらね〜〜〜〜!!!!


FINAL FANT

ASY

😐✊⚔💥

📄


わたしは懐にしまったそのメモをぴりりと割いて、船降り場のゴミ箱にそっと入れた。

信仰の自由




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2020年に書いたもので別のとこに載せてたのを改訂しまくりnoteにも載せてみたの巻。

みなさんの宗教観と障害者観はいかがですか?

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