人間家庭で育ったオランウータンにとって福祉とは何か?(第5回アソ読会報告 おまけ)

第5回で議論が盛り上がったけど、報告記事に載せきれなかったものについて、もったいないのでおまけ記事として書いておく。

1.動物の社会的立場と道徳的地位

動物介在活動(AAI)における動物の福祉への配慮に関連して、動物の社会的立場の意味について少し述べる。一部の動物には、人間と同様に、社会的な役割を欲すものがいる。犬は、その典型である。よくある誤解だが、躾をしない自然なままの欲求の発露を受け入れることが、犬にとっての福祉ではない。犬は、躾され、主人を持つことで、その習性を発揮し、福祉が向上する。少なくともドッグトレーナーなどの専門家はそう考えている。だから、犬にAAIを仕事として与え、パートナーとして働いてもらうことは、犬にとってもその福祉の向上に繋がりうる。ただ、ここでは、ここからさらに話を拡げて、その社会的な意味を考えたい。すなわち、動物が社会的な役割を持つことは、動物の道徳的地位に関わるか、ということである。

まず、動物も人間同様に、人間社会において労働し、その社会的な労働者の立場を得ることで、人間社会の一員として、道徳的配慮を得られるようになるのではないか、という説について考える。これは道徳的配慮の基盤を一種の社会的能力に求める立場で、なるほど、一見したところ、一理あるように思える。というのも、社会的に有益な能力を持つ者は、その健康などを著しく害することでその能力が低下すれば社会的な損失になるから、優先的に配慮される傾向にある、ということは、普通に社会的な事実であろう。ただ、この理屈の問題点は、社会的に有益な能力を持たない者は配慮されなくてもよい、という帰結に到ることである。これは動物だけでなく、人間を念頭においても、非常にまずい議論である。

では、もう少しマイルドに、人間と親しい関係を結ぶことで動物も尊重され得る、という説はどうだろう。これもやはり社会的な事実であって、一番大切にされている動物はたしかに人間に最も身近な存在、つまりはペットである。一方、豚や牛は、多くの人間にとっては見えないところで「処理」されており、その生体との関係は結びようがない。このような社会的な関係を基盤にして、動物に対する倫理的扱いは決まっている、というのはたしかな事実である。だが、それは倫理的な正当性に関する議論ではなく、たんなる身内びいきである。

動物が人間に何をしてくれるか、という観点から動物の道徳的地位を考えると、以上のようになる。だが、逆に人間が動物に何をしてきたか、ということを考えると、これは倫理的な議論になり得る。というのも、人間は一部の動物を家畜化することで自然界では生きられないようにしてきたのであり、それゆえにそうした動物に対しては特別な責任を持つ、と考えられるからである。

(ただ、こうした社会関係を中心に倫理を立ち上げることに、私は合意しない。道徳的配慮の対象となる鍵は「有感性」だと思っている。だが、社会関係がまったく倫理に関係しないとも思わないので、今回は上記のように考察した。)

2.「動物福祉」の概念を倫理学の立場から整理する(伊勢田哲治の議論の紹介)

いわゆる「動物福祉」についての概念的な検討は、伊勢田哲治(2018) が参考になるため、以下で紹介する。伊勢田によれば、「動物福祉」には対立する複数の考え方が併存している。たとえば、「5つの自由」あるいはその改善版の「5つの領域」が動物福祉においては参照される。5つの自由とは、「飢え、渇き、栄養不良からの自由」「温度と物理的環境における不快からの自由」「痛み、負傷、病気からの自由」「恐怖、抑圧からの自由」「自然な行動をする自由」である。そして5つの自由が苦痛や不快などネガティブなものを取り除くことに主な焦点があることへの批判から、よりポジティブな楽しみや快楽を促進することを含み込むように発展されたものが、5つの領域である。5つの領域とは「栄養」「環境」「健康」「行動」「精神状態」とされている。

また、倫理学においては、人間の福祉とは何かについて、⻑い議論の歴史がある。その結果、大別すると、以下の3つの説がある。まず、心地よい経験をすること(不快な経験をしないこと)が福祉である、という「快楽説」がある。しかし、「快楽説」に対して、脳に電極を刺して快楽を感じさせる装置があったとして、それに繋げられることが福祉か、という疑問が生じ、それへの回答として、望みが適うことが福祉である、という「選好充足説」がうまれた。だが、本人が主観的に望んでいることが本人の客観的福祉に反する、という事態は依存症などを例に挙げなくても日頃の自分の行動を振り返ればありふれたものであって、それゆえに「健康」「収入」「社会生活」などの客観的指標で測れるものこそが福祉である、という(客観的リスト説)がうまれた。

これに対応して、動物の福祉を倫理学的に考える議論も存在する。まず、動物にとって快や不快こそが重要であるという「快楽説」があり、また、動物自身が何を選ぶか(動物福祉学において「動機テスト」や「選好テスト」と呼ばれる手法を使う)を動物福祉の基礎とする「選好充足説」がある。そして、客観的リスト説に対応するものとして、健康や生理学的指標など客観的な指標で福祉を捉える「機能充足説」と、その動物本来の行動を取れることが福祉である、という「本性説」がある。

以上の哲学的議論を踏まえて5つの領域を見る。そうすると、「精神状態」が快楽説、「環境」はそのよしあしに選好テストが使用されるので選好充足説、「栄養」や「健康」が機能充足説、「行動」が本性説で概ね対応していることがわかる。こうした対立する立場を一つのリストとすることは、哲学的には誤魔化しであるように感じられる。だが、5つの領域が実践的なガイドラインであることを考えると、複数の立場の意見を反映して多角的に動物の福祉を保障しようとしていると考えれば、理解できないことではない。問題は、なぜ動物の福祉を大事にしなければならないか、という根拠が問題になったときに、動物福祉は一貫した理路を示せるのか、ということであると、伊勢田は指摘する。

人間の福祉だけでなく、動物の福祉も尊重されるべきだと主張するためには、人間の福祉と動物の福祉を同じ福祉として、同様の観点からその尊重を正当化する必要があるからだ。特に本性説は、人間の場合には、原始の生活でとられていた行動をとれることが人間にとっての福祉だという考えはあり得ないことからも、その妥当性に疑問がある。本性的な行動が自然に出ることはそれ自体としてではなく、その結果として他の観点から見た福祉(ストレスの軽減など)が向上するから大事だ、ということではないかと、伊勢田は指摘する。私が考えるに、これに加えて、おそらく人間と違って、動物の本性的な行動は一般化して認識することがたやすく、それに適うことは動物の福祉にとっては実務上重要な指標になり得るから、「行動」の指標は重要視されている、ということだろう。

3.人間家庭で育ったオランウータンにとって福祉とは何か?

伊勢田は本性説を人間に当てはめる際に、やや雑に紹介している。紙幅の都合や議論の煩雑化を避けるためだと推察されるが、人間においての本性説は、哲学史的な議論としては、むしろ、人間本性である理性を正しく発現して生きることこそが幸福だ、という説として解すべきだろう。たとえば、アリストテレスは、切れるナイフがよいナイフであり、家を上手につくる大工がよい大工であるように、人間もその本性的な働きを活かすことでよい人間になる、と考えた。そして人間に固有の働きとは、理性である。だから、理性を働かせる生活こそがよい生き方であり、幸福である、と考えた。

さて、ここで一つのケースをもとに、問いを提起する。人間の家庭で育てられたオランウータンにとっての福祉とは、あるいは幸福とは何か、という問いである。あるオランウータンは、違法ではあるが、ある飼い主によって⻑年人間の家庭で育てられてきた。そのオランウータンは野生で生活したことがなく、木に登ることすらできない(野生のオランウータンは樹上生活者である)。このとき、オランウータンに対して、その自然本来の本性に沿った行動を発現させるように、つまりは野生の生活に戻るように訓練したり、環境を整えることは、果たしてそのオランウータンにとって幸福であろうか。少なくとも私には、そうは思われない。

ここに本性説の危険性がある。オランウータンにしろ、人間にしろ、その本性なるものを定め、それに沿った特定の行動をよい行動として、そのような行動が発現する生活こそが幸せな生き方である、という考え方には、そこから漏れ出ていく者への配慮が欠けている。ナイフは切ることを目的として作られるから、切れないナイフは研いだり、それでもダメならば捨てればよい。だが、人間は何かの目的のために作られるわけではないし、その目的に合わせるために本人の意に反して「研ぐ」わけにはいかないし、「捨てる」わけにもいかない。このオランウータンもそうであり、それは一つには人間が彼(女)を「切れないナイフ」にしてしまった責任があるからだ、と考えると「1.動物の社会的立場と道徳的地位」で述べたこととつながる。

おそらく野生のオランウータンならば、その快楽も、選好充足も、機能充足も、本性的な行動と、矛盾なく、相互に補完的に福祉を向上させていく。というか、多くの野生動物にとってはそれらが矛盾することは少ない。しかしながら、人間が関わると、そのバランスが崩れる。動物は、その生息環境において、ある傾向性をもった行動を発現し、それによって環境に適応している。そして、基本的に動物は、特定の傾向性をもった環境においてのみ生きている。この環境とセットで、動物の「本性的な行動」が発現している。というか、この「本性的な行動」が発現しない環境では死んでしまう。このような前提を、人間はしばしば変えてしまう。

考えてみれば、人間にとっての社会福祉も一面において、そのようなものかもしれない。歴史的に見て、優生思想がそう指摘したように。だが、私たち人間は、社会福祉によってどのような人間にも生きる権利、しかも文化的で健康な生活をおくる権利を保障している(少なくとも、そうすべきであるということが公的に正当化されている)。こうした人権の輪を動物にまで拡大して、どのような社会保障制度をつくるべきかを考えるとなると、やはり本性説には問題があるし、一貫した正当化ができた方がよいだろう(少なくとも、人間にとっての福祉が正当化されているのと同程度には)。そのためには動物倫理を参照すべきだし、そこからソーシャルワークの職業倫理を鍛えなおすべきである。

動物に対するソーシャルワークを理論的に詰めていくために、このような動物の福祉に関する説の多元性や、本性説の限界、人間の介入の影響などに気を配る必要があるだろう。少なくとも、ソーシャルワーク理論は動物福祉だけでなく、動物倫理から学ぶべきところがあるはずだ。

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