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夏を越せない想い

足の先を、こつんと突かれた。

重たい瞼を少しずつ開けると、目が乾燥していることに気づく。コンタクトを外さずに寝てしまったようだ。

湿った暑さのなか、扇風機の優しい羽音だけが涼しさを演出している。鎖骨のあたりをそっと触ると、ほんのりと汗で濡れているのが分かった。

すぅうう。

大きく息を吸い込む音がする。静かに隣を向くと、さらさらとした短い黒髪が、扇風機の風に揺らめいてるのが見えた。

しなやかな筋肉のついた肩が、ゆっくりと上下する。

(男の人の背中って、こんなに大きいんだ)

傷ひとつない、きれいな肌を眺めていると、思わず吸い込まれそうになってしまう。人差し指を立て、そっと背中に近づけてみる。彼が起きてしまわぬよう、なるべくゆっくり。

カチッ。

あと1センチという距離で、扇風機のタイマー音が切れる音がした。

残念。

私は手を引っ込め、一呼吸置いてから、上体を起こした。

床の上には、無造作に脱ぎ散らかった服。その一枚一枚を確かめるように拾い上げ、順番に袖を通していく。昨日卸したばかりの白いTシャツからは、夏の空気を閉じ込めたような匂いがした。

ふと、テレビの前に飾られた写真立てに目が留まる。

絵に描いたような、理想の恋人たち。彼の隣で笑う女性を、私は知らない。きっと彼女も、今ここにいる私のことを知らない。

「本当に知りたいの?」

前に一度、彼女のことを尋ねたときに言われた台詞だった。

私が小さく首を横に振ると、それが正解だよという顔をして、彼は私をそっと引き寄せた。

なんて、ずるい人なんだろう。

私の知りたいことは何ひとつ教えてくれず、面倒な気持ちばかり置き去りにしていく。それでも彼の腕をふりほどけないのは、私が弱いからなんだろうか。

カーテンの隙間から漏れる光が、寝ている彼の背中をほのかに照らす。扇風機のタイマーを回すと、短い黒髪がさらさらと揺れ始めた。

床に転がった小さな鞄を手に、なるべく音を立てぬよう、私は部屋を後にした。


*


梅雨明けの空は、いつもよりも高く感じる。太陽のじりじりとした熱が、肌に刺さるように痛い。

日焼け止めは、外出の30分前に塗らないと意味がないって、誰かが言ってたけれど、果たして本当なのだろうか。

正しいことと、正しくないこと。

この二つをちゃんと見分ける術を、私はまだ知らない。

彼との関係もそうだ。

恋人がいる人を好きになることは、きっと正しくないことなんだろうけど、私はまだ、自分を納得させることができないままでいる。

頭では分かることも、心がそれを拒むのだ。

——チリン、リン

風鈴の音を聞いたのは、去年の夏。友達の家でこじんまりと開かれた飲み会に、彼はいた。

「煙草、嫌なひと?」

外の空気が吸いたくて、何となくベランダに出ていた私に向かって、彼は声をかける。

「気にしないです」

初めての会話だった。

彼が息を吸うたび、煙草の先がほんのりと橙に染まる。吐き出された煙は、夜の空気に吸い込まれていくようだった。

目に少しかかるくらいの前髪が、夜風にさらさらと揺らめく。この景色がよく似合うひとだなと、ぼんやり思った。

「きれいですね」

思ったことを口にした瞬間、後悔した。男のひとに向かって言う言葉じゃない。しかも、初対面の。

彼は一瞬驚いた顔をして、すぐに小さく笑ってみせた。

「見かけほど、いいもんじゃないよ」

それは、煙草のことなのか。それとも、彼自身のことを言っているのだろうか。

考えようとしたが、答えが分かったところで返す言葉もなかったので、やめることにした。

——チリン、

カーテンレールに吊るされた風鈴が、涼やかな音を奏でる。

「夏、」

ふと、彼が口を開いた。

「え?」

「夏、似合うね」

彼は最初から、掴みどころのないひとだった。

煙草の煙のように、ゆらめいて、色っぽくて、すぐ消える。

そして私は、そんな彼のことを、どうしようもなく好きになってしまった。


*


風鈴の音が鳴っているのは、記憶のなかだけではなかった。

横に目を向けると「氷」と書かれた小さな旗が、細い糸で吊られている。

それほど大きくないテントの下には、一台の長机とパイプ椅子。こじんまりとした、かき氷屋だった。

そういえば、今年はまだ夏らしいことをしていない。

「冷たいですよ、どうですか?」

机の下で作業をしていた男性が、こちらに気づいて声をかけてきた。30手前だろうか。えくぼが似合う、優しい雰囲気のひとだ。

それほど欲していたわけでもないが、暑い日差しから少しでも逃れたい気持ちが、足をテントへと向かわせる。

いちご、メロン、レモン、ブルーハワイ。

「どれにします?」

男性は、氷を機械にセットしながら尋ねる。机の上に並べられた鮮やかな色々。いつだったか、彼がこんなことを言ってるのを思い出した。

「かき氷のシロップって、全部同じ味なんだよ」

原材料はまったく同じ。だまされてるんだよ。違う味だって、思い込んでるだけ。浅はかだよなあ。結局全部同じなのに、どれにしようって頭使って悩んで。選ぶことに、意味なんて…

「…ないのに」

「ん?」

「あ、いや。かき氷のシロップって、そういえば全部同じなんだよな〜って思い出して」

男性は、きょとんとしている。それもそうだ。

「同じなのに、どれにしようって悩むの、おかしいなって」

小指の爪が、掌に食い込む。何に対して強がっているのか、自分でもよく分からない。

何が正しくて、何が正しくないのか。

私には、よく分からない。

「ん〜、まあ、全部同じってことはないですよ」

「え?」

えくぼの位置が、ゆっくりと上がる。

「味の成分は同じって言いますけどね。色のほかに、香料とかも微妙に違うらしくて。一つでも違う部分があるなら、それはもう、別物っていうか」

「人間の立場だと、選ぶ意味なんて〜とか思っちゃうかもしれませんけどね。シロップからすれば、選ばれたいじゃないですか。どうしても自分がいいって、思ってもらいたいじゃないですか」

「僕がシロップだったら、ちゃんと選んでほしいです。わずかな違いでもいいから、その差を認めて、選んでほしい」

男性はそう一息に言って、氷をシャリシャリと削り始めた。扇風機の羽音より、風鈴より、幾分も涼しい音がする。

「ま、シロップに気持ちなんて、ないんですけどね〜」

また、えくぼの位置が上がっていた。

「あると思います、きっと」

男性は手の動きを止め、私の目を見つめる。

「誰だって、選ばれたいですから」

私だって、本当はずっと、選ばれたかった。選ぶことに意味はないと言った彼に、選んで欲しかった。

「ブルーハワイで、お願いします」

いいですね〜、男性はそう言いながら、みずいろのボトルを手にとる。真っ白な雪山に、勢い良く雨が降り注がれた。

かき氷を受け取ると、ひんやりとした感触が掌を伝う。夏のすべてが、私の小さな右手に収まっているような、そんな気さえした。

「夏、似合うね」

彼の言葉を反芻する。

扇風機のタイマーは、もうとっくに切れているだろう。けれど、あの部屋にはきっと、もう戻れない。

夏が似合う女は、夏を越すことはできないのだ。

スプーンの形をしたストローで、冷え切った夏を、そっとすくい上げる。

みずいろの氷は、舌にのせた瞬間、ふわりと消えた。


Photo by ほしの さん

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