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赤のレジスタンス

晩秋から初冬にかけてが、私の一番好きな季節だ。
人々が背を丸め、上着の前をかき合わせるような寒風の中を、わざと背筋を伸ばしてカツカツと歩く。
そうして、特に急いでいるわけではないのに、前を歩く人をずんずん追い越していく。

こんなことなんでもないわと強がる自分が、自分を安堵させる。
努めている作り笑顔をやめて、不機嫌極まりない鬼の形相で、人混みの中を駆け抜けていく自分。

私はこういう人なのよ。
そうよ、いい格好をするのは、もうやめたのよ。

仕事をする元気はなくても、紅葉を見に行く力はあるらしい。
まあ、仕事は私じゃなくても、ほかの人でもなんとかなる。
でも私の心が感じる美は、私だけのもの。
そして、いまだけのもの。
毎年見ていても、毎年心の背景が違う。

今日の休みは先週から入れていた。
なるべく予定を立てないようにしているけれど、今年はどうしてもここの紅葉が見たかった。
コロナ前の2019年まで、10年以上ほぼ毎年行っていた場所。
以前は空いていたのに、今日は思っていたより人がいる。

色づいた葉を見上げて感嘆する家族連れやカップルたちの会話を、見知らぬ外国語のようにやり過ごす。
「アイ」という音のなかに、「I」も「愛」も「相」もない。
ただそのオトだけを記号のようにとらえる。
記号は、私に痛みを与えない。

「大丈夫か?」と問われて、「大丈夫」以外の答えがあったら知りたい。
けれど知ったとしても、同じように「大丈夫!」と答えるだろう。
それはたぶん自分への呪文。

まだ書ける。
まだ撮れる。
仕事もできる。

そして、食べられる。
珈琲一杯飲んだだけで、朝食を抜いた私には、なんともお上品な量。
しかし「店の中」で飲食したのは、2020年11月以来のこと。
感染して死にそうになっても救急車を呼んでくれる人がいないということで、オープンエアの店でしか食べなかった。

これは「朝食」ということにして、「昼食」は別。

「新そば」という幟の旗に抵抗できなかっただけ。
空腹というより「食い意地」の問題。

食べたら疲れも癒えて、さらに足を延ばした。
ここは初めて。
紅葉情報のサイトにも載っていないせいか、人影はほとんどない。

私はケチだから、相当親しくないと(かつ、一人で行きそうな人限定)場所は教えたくない。
気に入っている場所が、テレビなどで放映されると、すごくショックだ。
午前中の場所も、昔は人が少なかったのに、テレビやネットで取り上げられていつのまにか有名になってしまった。

紅葉は、葉の命が果てるときの断末魔の赤。
末期がんの兄は、最期の週は緩和ケア病棟で、文字通り「植物が枯れる」ように逝った。
家族は苦しまずに穏やかに逝かせたかったくせに、私自身は、最後の最後まであがいて悶えて断末魔をさらして果てるのが似合う気がする。

とにもかくにも。

抵抗だ。
歯ぎしりだ。
地団駄だ。
握りこぶしだ。
背伸びだ。
逆襲だ。
仇討ちだ。

謙虚さとか感謝とか、喧伝するのは恥ずかしい。
何より私らしくない。

そうしなければ、自分の無力さに沈没してしまうから。
神様にも悪魔にも、恭順したりしない。
抵抗を止めたら私ではない。

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