ゴーヤ、おとなの味 叶
NHKで連続テレビ小説ちゅらさんが放送されていた頃を境に、
実家の食卓にはゴーヤが徐々に並ぶようになった。
そのときわたしが幼稚園生だったか小学生だったか覚えてはいないけれど、
わたしはそれがとても嫌いだった。わたしの舌には苦過ぎた。
おいしいなんて全く思えないし、
父と母がパクパク食べておいしそうにビールを喉に流し込んでいる様子が信じられなかった。
わたしはこのままゴーヤもわさびもピーマンも嫌いなまま大人になるのだろうと思った。
その記憶はたしかにあるのに、
いつのまにかわたしはゴーヤを肴にビールを飲む大人になった。
ゴーヤチャンプルにしてみたり、
お醤油でおひたしにしてみたり日によってさまざまだ。
「夏はゴーヤがおいしいねぇ」
聞き飽きたセリフを言う側に回った。
大人になるというのは、
きっとこういうことなんだろう。
味覚の変化を筆頭に、
そういうことばっかり言うから大人はつまらない、
と子ども時分は思っていたことを言うようになる。
「勉強はしておいた方がいいよ」「あなたはまだ若いんだから大丈夫」
二番煎じどころか、うすいさちよすらもう使い回さない出涸らしのような大人になった。
さて、わたしが出涸らしのような大人になる少し前の二十歳そこそこの頃は、
馬鹿の一つ覚えみたいに、実際馬鹿で一つ覚えであったし、飲酒三昧だった。
飲酒に明け暮れながらぼんやりと気づいてはいたけれど、
わたしの身体はどうやらお酒に強くないらしい。350mlの缶ビール1本では酔わないが、
代わりに頭痛がやってくる。
気持ちよく酔うためには頭痛を甘んじて受け入れないといけない、ということだ。
しかし自分は大人だと信じて疑っていなかったあの頃は、アルコールの力を借りて現実逃避をしなければやってられなかった。
現在、出涸らしのような大人になったがとても良い。
クヨクヨすることがぐっと減った。
変な言い方をすると、いろんなものに諦めがつくようになった。
わたしはお酒を辞めた。
正確に言うと友人と飲みに行くなどの目的がない限り、
アルコールが必要なくなった。
頭痛を我慢してまで酔いたいとも思わないし、
酔っている状態を心地いいとも思わない。
アルコールなんかに頼らなくても、現実を受け入れふてぶてしく生きられるようになった。
証拠として、この人以外もう愛せないと思い悩んだ相手の顔も今では思い出せない。
なんとなく鈴木亮平と山崎賢人に取り合いをされていた気もする。
死にそうなほど辛くたって死なない限り死にはしない。
なんのこっちゃという感じだけれども、気づくまでにわたしは長い時間と多量の酒を費やした。
回り道はしたけれど、わたしはやっと自分にとっていい感じの大人になったようだ。
ところで出涸らしでありいい感じの大人であるわたしは、
ゴーヤはおいしく食べるがわさびとピーマンのおいしさは未だにさっぱりわからない。
出涸らしのような大人の先、わたしは一体何になるのかしら。
この夏はそんなことを考えながら、
ゴーヤをおいしくいただこうと思う。
それではまた。
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