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今日最初に会った人間を、殺すことにした。【短編】


 男は後悔していた。

 あんなことを思いつかなければ、こんな恐ろしい決断を迫られることはなかったのに、と。

 全身から汗が噴き出している。湿った服は真冬の風に当たり、保冷剤のように冷たくなった。それでも汗は止まらない。

 視線をそっと手元へ落とす。包丁を握った右手から、血混じりの汗がポタポタと垂れていた。

 小刻みに震えながら、足元の「それ」に目を合わせる。青白い顔を見つめていると、先ほど脳裏をよぎった言葉がまた頭に浮かんできた。

 今朝あんなことを思いつかなければ、こんなことには……。

 
────

 今日最初に会った人間を殺そう。

 まだ日の出前、段ボールでできた我が家で目覚めた瞬間、ふと思いついた。

 理由をでっち上げようと思えばいくらでもできる。社会に対する憎しみとか、金持ちの恐怖に引きつった顔が見たいから、とか。
 けれど実際のところ、これだ、という明確な理由はない。

 顎の関節を鳴らしながら、盛大にあくびをする。

 今の生活に不満はなかった。家を構える公園は、街のはずれにあるせいか警察の巡回が少なく快適だ。ベッドにしている中身の詰まった大量のゴミ袋の寝心地も悪くない。唯一の欠点である臭いも、冬の今ならそこまで気にならないし。

(こんなに寝やすいのに、なんでみんな嫌うんだろうな)

 前に住んでいた公園では、ホームレスのおっちゃんから「ゴミの上に寝るなんてあり得ねえ」と驚かれた。昔からゴミに囲まれていると落ち着くのだ。母を亡くしてから、その傾向が強まったように思う。

 男は鼻を啜りながら脇の下に手を突っ込んでぼりぼりかいた。まだ外は暗いから、爪の間に溜まった垢を見ずに済むのが救いだ。仰向けからうつ伏せに体を回転させる。ベッドに肘をつくと、頭の先がダンボールの天井にこすれてパリパリ音を立てた。

 芋虫のごとく体をよじりながらベッドの足側へ。ベッドの下に隠しておいた包丁を手探りで取り出し、ブルーシートの壁の裂け目から差し込む電灯の光に当ててじっくり眺めた。

 悪くない。所々錆びているが、人を殺すには十分だろう。数ヶ月前、護身用にとゴミ置き場で拾っておいてよかった。こんな形で役に立つとは、あのころの自分は想像もしていなかったが。

 刃を新聞紙でくるみ、腰のベルトにさした。武士になった気がして少し楽しい。

 家から這うようにして出ると、痛いほどの寒さに身がすくんだ。手をついた地面は氷のようだ。拾ってきた服を何枚も重ね着しているが、冷気はやすやすと貫通してくる。間違いなく今季一番の冷え込みだろう。白い息が電灯に照らされてキラキラと舞い上がった。

 ゆっくりと立ち上がる。膝の関節が鳴るボキボキという音、そして男の「ううんっ」といううなり声が、夜明け前の公園に反響した。


 住宅街の歩道を、包丁の柄に手を当てながらプラプラ歩く。まだ太陽は見えないが、徐々に空が青みを帯びてきた。

 冬の朝は好きだ。澄んだ冷気をぎゅっと集めたら、透明の宝石ができる気がするから。

 だが何より好きな理由は、人がいないからだ。

 男は人の視線が苦手だった。人の目を見ることのできない子供時代を過ごし、そのまま大人になった。

 母親は恋愛に奔放な人だった。男は母親を愛していたが、母親のほうは我が子を愛することは最後までなかったように思う。

 母親の相手は何度も変わった。酔うと毎回殴るやつもいたし、子供に無関心なやつもいた。妙に親切なやつもいたが、そいつは二人きりになると体を触ってくるやつだった。

 母親は露骨に子供を邪魔者扱いした。失恋する度、口紅をべったりつけた唇を歪めて罵った。

「あんたなんか産むんじゃなかった。赤ん坊のころに捨てておけばよかった。あーあ!」

 あーあ、と。最後は決まって大声で吐き捨てた。
 どんな罵倒よりも、その「あーあ!」に一番心を抉られた。


(俺が本当に殺したいのは、母ちゃんかもしれないな)

 綺麗に整えられた、誰かの家の花壇を見ながら思う。

 母親は十年以上前に死んだ。睡眠薬を大量に飲んで風呂に沈んでいた。自殺か事故か今も不明のままだ。写真は一枚も残っていない。「魂が吸い取られる」といって、彼女は決して撮ろうとしなかったから。
 あんなに愛していたのに、もう顔はおぼろげにしか覚えていない。
 けれど「あーあ!」という声だけは、今でも耳の奥に鮮明にこびりついていた。ストレスを感じると、耳の奥で鳴りはじめる。

 あーあ! あーあ!

(誰もいねえな)
 この辺りは高級住宅街だから早起きの金持ちに出会えるかもと期待したのだが、少し早起きしすぎたらしい。
 まあいい、気長に構えるとしよう。
 鼻歌を歌いながら、貴族のようにゆっくりと歩みを進める。
(最初に会うのはどんな奴だろう)
 朝のジョギングに精を出すおっさんだろうか。すれ違いざまに心臓を突き刺してやれば、さぞスッとするだろう。
 あるいは朝練に向かう学生を襲うのもいいかもしれない。どうせ苦労も知らずに育ったガキだ。殺したところで何の罪悪感も湧かないだろう。
 
 最初に会った相手を殺す。最初はふとした思いつきだったが、いつの間にか男の中で確固たる決意に変わっていた。
 ベルトから包丁を抜き取る。刃に巻いていた新聞紙がぱらりと落ちた。
 包丁をオーケストラの指揮棒のように振り回す。
「今この瞬間、俺が一番不幸だ。だから何をしても許されるんだ」
 呟いたあと、クスクス笑いが止まらなくなった。人生で今が一番楽しいという確信がある。
 笑いながら、空き地の前を通りかかった時だった。何かあり得ないものを見た気がして、男はぎょっと立ち止まった。
「あっ」
 その拍子に包丁を取り落としてしまう。慌てて拾ったとき、間違えて刃の方をぎゅっと握ってしまった。
「いでっ」
 パッと右手を放す。また包丁が鈍い音を立てて歩道のタイルに落ちた。
 手のひらを見ると、親指の付け根あたりに赤い線のような傷が出来ていた。幸い深く切ったわけではなさそうだが、少しずつ血が滲み出してくる。
「くそっ」
 忌々しい気分で空き地に視線を戻した男は、目を見開いた。
 生い茂る草の隙間に、小さな青白い顔がある。
 視線を空き地に向けたまま手探りで包丁を拾い、空き地の境界線に張られたロープを跨いだ。生い茂る草や霜柱の立つ土を踏みしめ、奥へ向かう。
 
 空き地の奥、隣家との境界線近くまで来て、男は立ち止まる。
 草の上に無造作に置かれていたのは、白い布にくるまれた赤ん坊だった。
 冷気に剥き出しの顔には血の気がなく、男が覗き込んでもピクリとも動かない。
 赤ん坊のことはよく知らないが、生まれて間もないように見えた。
 無意識に包丁を抱きしめようとしていたことに気づき、慌てて体から離す。
 凍てつく風が背の高い草をざわざわと揺らした。

 先ほどまでの興奮は嘘のように消え失せている。自分が一番不幸だという確信が、目の前の光景に打ち砕かれていく。
 自分は親に恵まれなかったが、少なくとも生まれてすぐに捨てられたりはしなかった。
 誰がどう見ても、今この瞬間、目の前の赤ん坊が世界一不幸だ。
 そのとき、ある事実に気づく。
(このガキが、今日初めて会った人間だ)
 膀胱がぎゅっと縮まるのがわかった。胸の奥から震えが生じ、背中へ走り抜ける。
 高校生は余裕で殺せる。中学生でもなんとかやれるだろう。だが赤ん坊は完全に想定外だ。
 見なかったことにして、別の獲物を探そうか。
 すがるような気持ちで道路に視線を泳がせるが、誰一人歩いていない。声どころか気配もない。まるで世界に存在しているのは自分と赤ん坊だけのようだ。いつもならゴミの在り処を仲間に知らせるカラスの鳴き声ぐらいは聞こえるはずなのに。
 体中からぶわりと汗が滲み出してくる。
 しばらくのあいだ、男はその場に佇んでいた。風の音がざわざわと草を揺らす。冷たい風になぶられても赤ん坊は微動だにしない。それを見て、はっと息を飲んだ。
 もしかして、もう死んでいるのではないか。
 青白い顔、きつく閉じたまぶた。昨日の夜からここに捨てられていたとすれば、もう死んでいてもおかしくない。
 男の胸に皮肉な安堵が広がっていく。
 すでに死んでいるなら物と同じだ。今日はじめて会った人間には該当しない。
 赤ん坊は歩道からぎりぎり見える位置に捨てられている。もっと辺りが明るくなれば、通行人が見つけて通報するだろう。
 男は無理やり自分を納得させると、なぜか力の入らない足を動かしてギクシャクと踵を返した。
 草を踏む足が重い。この吐きそうな気分はなんだ。
 男は舌打ちした。
 まさか罪悪感とでもいうつもりか。殺人鬼予備軍にまで身を堕としておいて。
 自分でも驚くことに、男は怒りを覚えていた。それは無差別殺人の出鼻を挫いた赤ん坊に対してであり、赤ん坊を平気で捨てた親に対してでもあり、自分を決して愛さなかった母親に対してでもあった。
「あーあ!」という口癖が頭の中に響きはじめる。
 男は汗と血に塗れた包丁の柄を、強く握った。
 その時。
 空き地と歩道の境界線を鼻息荒く跨ごうとした男の耳に、かすかな音が届いた。

「……けほっ」

 片足を上げたまましばらく硬直していた男は、次の瞬間、勢いよく踵を返した。元の場所へ駆け戻ると、赤ん坊の真上で包丁を振り上げる。

「ちくしょう!」

 凍った地面に叩きつけられた包丁は、刃の真ん中から真っ二つに折れた。
 男はちくしょう、ちくしょうと呟きながら赤ん坊をそっと抱き上げた。手のひらの血が小さな頬に付かないよう注意しつつ、走りはじめる。
 境界線のロープを飛び越えた瞬間、今まで静かだったのが嘘のように赤ん坊が泣きはじめた。
「あーあー!」
 その泣き声は母親の口癖によく似ていたが、不思議と不快には感じなかった。
 頭の奥で鳴っていた母親の「あーあ!」が、赤ん坊の泣き声に塗りつぶされていく。
 男は走りながらわめいた。
「あーあー!」
 母親が死んだ時にも泣かなかった男は今、大泣きしていた。ようやく顔を出した太陽が光の帯で二人を照らす。
 大粒の涙をこぼしながら、男と赤ん坊は朝を走り抜けていった。

 終

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