じぶん

私に、人やイベントを教えてくれる人、誘ってくれる人はみんな私のサポーターみたいなものなのではないかと思った。

最近、いろんなところへ連れって行ってもらえている気がする。感謝。

感謝の気持ちはしっかり伝えよう。

ほんで、今日は、友達との対話がすごく楽しかった。わかったのは、自分を責めたり、苦しめたりしそうorし始めるところが、何かがいき過ぎている指標になるということ。例えば、自分がレポート書けないでいる時に、隣で書き終わった人のレポートが上手くまとまっているのを見て、自分は早く書くことも、クオリティもない…この自分どうにかしたいのにどうにもなっていない、苦しい…まで来たら行き過ぎで、そんな時は隣の人から離れるとか、自分は自分さ〜と思うとかしたらいい。なによりその人がすごく見えても、結局はその人のその能力も、人間という生き物の一特徴でしかないと思えたら良いのだと思う。私は、生きていていいし、その人と同じようにいろんな特徴がある。その人の特徴は私から見たら羨ましいものかもしれないけれど、他の人からみたら違うかもしれない。そんなものなんだと思えたら良い。

あとは、私、「間(あいだ)」が好き。私は、ナチュラル系よりの様々なものへの共感度高めな人間だと思う。パーマカルチャーとか、脱成長とかシュタイナー教育とか、じっくりしっかり味わう系にも共感できるし、きゃぴきゃぴ遊ぶこともできる。バリバリ働くことや、受験勉強することはできないが、それに憧れも抱く。いろんなものに共感している気がする。もちろん苦手なものもある。でも、ナチュラル系(この言葉は単にイメージで使っている)の人が苦手とするものもできるし、好きだし、分かるまではいかなくても、分かる気がすると思いたのだ。つまり、自分の手を使って生きていくのが良いと思いつつも、いろんな人間が見い出した、いろんな価値を知りたいのだ。でも、なるたけ、見えない人の上に立たない、気持ち悪くない生活を行いたいから、自分の使うものがどこから来て、自分の作ったものが誰に届くのかがわかる社会をみんなに勧めたいのである。

たぶん、これが私。


読んでくださった方へ、何を思って読んでいたのか、読んでくだすったのか、コメントくをだされば、家の前にやまびこをしに走るくらい、喜びます。