アセンダント考

昨日(2023年4月29日)の『毎日新聞』の「今週の本棚」の欄(13面)に『ラカンで読む寺山修司の世界』という本が紹介されていました。鼎談形式で書かれているのですが、その中の三浦雅士さんの発言に「デカルトの「我思うゆえに我あり」と違い、「我」は他者との関係がなければ存在しない。」というのがありました。

私はラカンも寺山修司も読んでいないのですが、変に理屈っぽいところがあり、もし自分を残して人類が絶滅したら、私も消えるのか?(もっとも「他者」とは人間や目に見える存在とは限らないかもしれませんが。)そんなことはあるまいなどとも思いましたが、デカルトとは別の見方ということなんでしょう。

ただ、私はもし仮に他の人がみんな死んで自分だけ生き残るような事になった場合、占星術をやるのかと考えたら、あまり意味がないような気がするんですよね。気象予測とか出来るかもしれませんが、あまり占星術の有用性は感じないでしょうね。占星術は人々がいてこそ意味のあるもののように思います。

で、他者がいなければ存在しない「我」とは何なのかと考えますと、占星術で云えば、アセンダント(が示すもの)かなと思います。1室の向かい側が7室であるのもよく出来ていると思いますが、アセンダントを包装紙に例える考え方がありますが、アセンダントは他者がいることにより成り立つキャラクター何でしょうね。

デカルトの「我思うゆえに我あり」は占星術では太陽でしょうかね。月はどうなんだろうとも思いましたが、思うことによって見出される「我」ですから、太陽の方がふさわしいかなと思います。

先程も書きましたように、ラカンも寺山修司も読んでいません。的外れである可能性もありますが、新聞の言葉に触発されて、他者がいることによって成り立つ「我」について占星術の考え方と共に考えてみました。

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