「と言う冗談を考えました」という話し方

Twitterなんかで何かを書くときに「と言う冗談を考えました」とつける時があります。

例えば
「ボウリング場で、オイル抜きってサービス(有料)があるんだけど、ボウリング場のせいでマイボールにオイルがつくんだからマッチポンプじゃねぇのか?と言う冗談を考えました」
みたいな感じ。

これ、「と言う冗談を考えました」って部分は完全な蛇足なんですよね。
書かないほうがスッキリするし、野暮ったくならない。

じゃあ、なんで書くのかと言うと、本気で言ってると思う人が出てくるのが面倒だから。
「レーンの保護と、ゲーム性を上げるためにオイルは塗られているのであって、無駄な金を使わせるために塗ってあるわけじゃない」みたいな馬鹿な事を言ってくる人がいる可能性がある。

俺のことを知ってる人からしたら、俺の知識量でそんな事も分からないとは思わないだろうし、基本的にはふざけたことばかりを言ってるのも知っているから、冗談だと分かる。
でも、何かで突然それを目にしちゃった人がいた場合、「お前が間違っている!」と本気で言ってくる可能性がある。

で、そういう人って「冗談で書いたんですよ」って言っても信じてくれなかったりもする。

そう考えると、やっぱり漫才のツッコミって必要なんだなとしみじみ思います。
「いま、ここが間違ってるから面白いんですよ。本気で間違ったわけじゃないから四の五の言わないでくださいね」って言う解説を入れる行為がツッコミ。
フリートークの場合なんかは、ボケの人が何と何を掛けたのかを瞬時に把握して、そこを指摘する必要があるから、ボケの人と同等以上の知識を持っていなくちゃいけない。
少なくとも、共通言語(お互いが確実に知っている何か)を認識しておかないとボケとツッコミの歩調が合わなくなる。

じゃあ、漫談の場合はどうなの?って言うと、舞台に立ってるって言う行為が「いまからボケますよ」って言うのを宣言している事になるから、それはそれでなんとか成立する。
でも、まあ、漫才よりは難しいですよね。
見ている側との共通言語を設定できないから、知識レベルと低いところに設定しなくちゃいけない。

R-1ぐらんぷりがM-1よりも通好みっぽい感じになってるのはそういう部分もあるんじゃないでしょうか。
お笑い業界の人のレベルだと自分の中で「面白い」を見つけられるけど、普通の人だと「これはボケなのかな?本気なのかな?」と思われたり、そもそも正解が分からないからボケていることが伝わらなくなってしまう。

落語は一人で複数の人を演じるから、ツッコミ役ってのがちゃんといるんですけど、でもやっぱり難しいって人もいるのかもしれないですね。
「粗忽長屋」や「あたま山」みたいな、いきなり聞くと訳が分からない話もいくつかあるし、世の中的には通好みっぽい趣味になってしまう。

俺みたいなアタマのいい人なら面白い話をちゃんと理解できるけど、そうじゃない人ってのは面白い事を面白いとも思えない可愛そうな人生を送っているんでしょうね。

と言う冗談を考えました(笑)

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