【今泉力哉監督】『his』『mellow』『愛がなんだ』を見て考えたこと

 愛することと、愛が受け入れられることは必ずしも互いを伴っていない。しかしその隔たりに絶望することなく、希望をもって跳び越えようとする人間の姿はときに切なくも愛おしい。

 立て続けに公開された『mellow』(2020.1.17)と『his』(2020.1.24)を劇場で見て、後日、『愛がなんだ』(2019)を配信で見た。いずれも今泉力哉監督の手になる映画だ。今泉監督といえばいま注目を集める恋愛映画の旗手と言われている。とくに『愛がなんだ』でヒットしたが、他に多くのオリジナル作品を手がけてもいる。
 ぼく個人としては、『愛がなんだ』はいいといろんな人から言われながらも観る機会を逸しており、『his』が初めて見る同監督の作品となった。見た順番が『his』→『mellow』→『愛がなんだ』と公開順にとことん逆らっている。より以前の作品もそのうち見てみたいと思っているので、逆流はとどまるところを知らない。


 『愛がなんだ』は、完全なる一方通行の恋愛の物語。思い込みの強いテルコ(岸井ゆきの)が軽薄にして酷薄なマモちゃん(成田凌)を想って行動し、舞い上がったり落ち込んだりするが結局は報われない。テルコが自身の気持ちを恋愛を超えた「執着」と読みかえ肯定するに至るまでの紆余曲折が、自己犠牲的/自己満足的な愛が織りなす奇妙な人間関係のなかでつづられる。
 愛すること-受け入れられることの狭間で足をとられながらも、最終的に自身の気持ちを肯定するか否かが焦点となるあたり、内向きに愛を見つめる物語だと言えるだろう。限界まで個人化された愛の形を呈示しているとも言えるかもしれない。

 『mellow』は、「mellow」という花屋を営む夏目(田中圭)と彼の周囲の人々の恋愛群像劇。本作では告白という行為が繰り返され、愛すること-受け入れられることの狭間をまさに跳び越えようとする瞬間を切り取って祝福しているかのようだ。祝福というのは必ずしも想いが通じることを意味しないが、しかし望んだ結果が得られないからこそ、かえって跳躍するに至った決意やその人の健気さは尊ばれるべきだ。劇中でたびたび口にされる「ありがとう、ごめんね」という言葉が優しく胸に沁みる。この言葉をかけてあげられるのは果たして告白を受けた当人に外ならず、したがって本作で描かれる恋愛はあくまで二人の間にある。

 『愛がなんだ』と『mellow』の二作を見て感じるのは、今泉監督の「好き」への祝福と同時に存在する、その結果としての幸福や痛みへの意図的な切り分けだ。記事の冒頭に愛することとそれが受け入れられることは別だと書いた。この二作において、劇中で展開する個々の恋愛の一番おいしいところさえ押さえていれば他はオープンにしておいていいというか、大切なのは結ばれたとか失恋したとかいう結果やそれにともなう感情ではなく、そこに「好き」という気持ちが存在して、その持ち主が跳躍することそのものなのだと思う。


 『his』ではうってかわって、二人の間の愛が大切な人や世間に許容されるかどうかが問題となる。迅(しゅん)(宮沢氷魚)と渚(藤原季節)がゲイであることによって、ポリコレ的な綺麗事はさておいて、事実として過去に自分が傷つき、現在は渚の妻を傷つけていて、将来にわたって娘の空が傷つくことになるかもしれない……。ここで、もはや愛は二人だけの間でやり取りされ満足されるものではなく、第三者や社会への広がりを持っている。作品ポスターのコピーの通り、「好きだけではどうしようもない」のだ。

 切り分けの話をするならば、迅が再び渚を、共同体の人々が迅を、迅と渚との新たな関係を渚の妻が、それぞれ受け入れることが出来るのかが焦点となる。結果からいうとそれぞれの結論は希望に満ちたものだったが、その結論を可能ならしめた迅と渚それぞれの「受け入れてもらうための跳躍」は不器用ながらも優しさを伴っていたし、それ自体として祝福するに足るものだっただろう。


 今泉監督は今年だけでもまだ『街の上で』の公開が五月に控えている。こんどはどんな恋愛映画だろう。もしかしたら恋愛映画じゃないかもしれないけれど。こんどはどんな跳躍が描かれるのだろう。もしかしたら描かれないかもしれないけれど。過去作の『知らない、ふたり』(2016)、『パンとバスと2度目のハツコイ』(2018)などもこれから見るのが楽しみだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?