そろそろ「勧善懲悪」絶対主義、止めませんか?

人気急上昇中の俳優・伊藤健太郎さんがひき逃げ容疑で逮捕されました。ひき逃げ自体は人名にも関わる非常に罪の重い行為であり、許されるべきではありません。一方、説得に応じて帰ってきたにもかかわらず、記事では人格否定ともとれるネガティブキャンペーンが張られているのが現状です。※特に見てもらいたい記事でもないので、リンクは割愛致します。

時を同じくして、Jリーグでは、仙台、新潟といったチームで立て続けに不祥事が発生しています。この2チームに共通するのは、不祥事自体もそうですが、それ以上にその後の組織体制に問題があり、言わば「隠蔽」ともとれる動きをしている点です。特にJリーグは公益性の高いスポーツ団体であり、透明化、コンプライアンスの徹底は一般企業以上にあるべきであり、今後のJリーグの動きに注目が集まっています。

「逮捕は知らなかった」ベガルタ仙台が社長会見で展開した責任逃れの“ご飯論法”
Jリーグ村井チェアマン J2新潟の対応批判 隠蔽意図の有無調査

また、このコロナ禍中にあって、特に地方ではコロナ陽性者の”犯人探し”に近い行為が見られたり、酷いケースですと”いじめ”とも取れる嫌がらせ行為が行われていたりします。

こうした行為、犯罪行為等に対する厳しい監視はなぜ行われるのでしょうか?(なおコロナ陽性については犯罪でも何でもなく、たまたま感染しただけであって、これらと同列にするのははばかれましたが、タイムリーでイメージしやすい話題として取り上げました。そういう意図は一切ないことを先に言明させていただきます)

ひき逃げ及びサッカー選手不祥事の諸悪の根源は何か?

上述の通り、上記2案件(俳優ひき逃げ及びJリーグチーム不祥事)とコロナ陽性者への反応の件は少し毛色が異なりますので、上記2案件を①、コロナ陽性者の件を②とします。

①について、諸悪の根源は何でしょうか?少し考えてみて下さい。

そうです、犯罪行為そのものです。ひき逃げであったり、DV行為、飲酒運転。これらの行為自体が犯罪であり、これらを断ち切ることが「理想」として求められます。ひき逃げが起こらない世界、DVが起きない世界、飲酒運転が撲滅された世界が理想です。ただ、なかなかそうはいかないのが現実であり、「可能な限り減らす」のが実質的な目標です。実際、全ての悪事をゼロにするのは不可能であると僕は考えています。全てのことは裏表があり、全ての悪事がゼロの世界は、即ち全ての善行もゼロになると考えます。これはサンデル先生の正義の問題にも通じますが、そもそも何を善とし、何を悪とするかは非常に難しい課題です。そういう360度色々な捉え方ができうる世界において、白黒をはっきりと分けるのは不可能です。

少し話が大きくなり過ぎましたが、いずれにせよ、こうした犯罪行為自体をゼロにするのは不可能であり、極力減らす努力を日々我々社会全体として行っている訳です。

諸悪の根源を懲悪するという正論の危険性

そういう社会の中で間違って犯罪を犯した人はその罪の重さに応じて罰せられます。また、再犯防止のため指導を受けます。犯罪者は真摯に反省し、罪を償い、再犯しないことを誓って再出発を図ります。犯罪の内容にもよって心象は変わりますが、少なくとも①の案件はこれで十分だと思います。

ですが、俳優のケースを見ても、そもそも罪とは関係ない人格的な部分が、それも真偽のほども分からない噂レベルの話が次から次へと出てきています。こういう人格だから事故を起こした、またはひき逃げをした、と言わんばかりに。ただ、これは現時点では何とも言えないと思います。もしかしたら、そういう性格が災いしたかもしれません。ただ、明確にこれが原因だったとは言えないのが現状です。明確に証明できないことを、さも正しいように書くのは非常に危険だと感じています。記事の書きようによって、冤罪で人を貶めることも可能だからです。ペンは剣よりも強しと言いますが、まさにこれです。

ただ、残念ながらこうした記事は受けます。ですので、週刊誌もこぞってこうしたゴシップ記事を書くのです。われわれ社会がゴシップを書かせているという構図があることは、一人一人自覚しないといけないと思います。

では、こういうゴシップを求める我々の心の中にあるものは何でしょうか?僕はここに、とても重要な課題が隠されていると思っています。

結論を言うと、まさにこのエントリーのテーマである「勧善懲悪」絶対主義の危険性です。もう少し噛み砕きます。我々は善を進め、悪を懲らしめることを小さい頃から教えられます。勿論、このこと自体は素晴らしいことです。ですが、少し度が過ぎるのでは?と思っています。

要するに、勧善懲悪を絶対視し過ぎるということです。先ほど書いたように、全てのことは裏表を持っています。善を勧めることを強調し過ぎると、悪を懲らしめることも同時に強調されます。そして、特に悪事を働いていない殆どの人にとって、それは至極当然のことに思えます。おそらく、①の当事者たちもそう思っていたと思います。ですが、①の方々のように、いつどこで悪の側に転落するか、分からないのです。①の場合は本人たちの落ち度が大きいと思いますが、そうではなく、たまたま犯罪に巻き込まれてしまうことだってあります。繰り返します。人はいつ悪の側にひっくり返ってしまうか、分からないのです。

そして、①の人たちのように、間違って犯罪を犯してしまった時、人はどういう反応をするでしょう?いつでもそういう可能性があると考える人たちは、おそらく、その事実を正面から受け止め、これ以上被害を大きくしないために動くでしょう。ひき逃げ事故であれば、逃げずに人命救助を最優先するでしょう。Jリーガーの場合、先ずはすぐにチームに報告します。

そして、Jリーグチームのケースはもう一つ大きな闇が出てきます。どうも報告を見る限り、当事者は比較的速やかにチームに報告しています。ここで第二の闇、それを聞いたトップマネジメントの判断です。彼らも、いつでもこういうことは起こり得ると考える人たちであれば、同じく速やかにJリーグに報告していたでしょう。そうすれば、罪は罪として、警察等と連携しながら、然るべき罰則を受け謹慎していたと思います。いつになるかは分かりませんが本人の態度次第で復帰のチャンスも見えてきたと思います。ですが、現実は違いました。チームの首脳が組織的隠蔽とも思える行為を行い、その当事者を事件後も試合で起用したのです。結果的に選手はチームに居れなくなりました。これも懲悪をあまりに強調しすぎるあまり、悪事に対して蓋をしようとしたからではないか、そのように思うのです。

勿論、チームの勝利のため試合で使いたかったから、といったところも大きいと思います。両選手とも中心的な選手と聞いています。ただ、これも長い目で見たときにどっちが正しい判断か、少し冷静に考えればすぐに分かることです。蓋をすればバレないという思想の根源に、懲悪の思いが強すぎて、自身が悪になった時に冷静な対処ができなくなっているように思えるのです。

コロナ禍の村八分の悲劇も同じ構図

そしてコロナ禍で起きている、悲しい村八分もまさに同じ構図だと思っています(繰り返しますが、陽性者=悪では決してありません。寧ろ非は殆どないと思っています。風邪やインフルエンザと同じで罹る人は罹る)。自分たちが罹っていないだけで、罹った人を攻撃する。罹っていない人からは罹った人が悪に見えるのでしょう。だから懲悪しても構わない。だけれども、彼らもいつ罹るか分かりません。日本は世界的に見て非常に感染率の低い国ですが、欧米ですと毎日万単位で感染者が出ています。いつだって陽性者側になる可能性があるのです。そう考えている人が陽性者を攻撃することはあるでしょうか?そう考えていないからこそ、攻撃してしまうのだと思っています。そして、そういう社会に居れば、陽性反応者はできるだけその事実を隠したくなります。厚労省のアプリは素晴らしい取り組みですが、陽性者の登録が少ないと聞きます。陽性者がその事実を公言しても不利益を被らない社会でなければ、こうしたアプリもなかなか機能しないでしょう。

終わりに~多様性とも関連させて~

別のエントリーで「信賞必罰」の危険性を訴えました。「勧善懲悪」も同じで、原則論としては正しい部分が多いが、例外的なリスクも常にはらんでいることを認識し、絶対視してはいけないと思っています。前者は著名な経営者がそういうことを訴えていたりして、これがまた、厄介です(ちなみに、私はその経営者をあまり好きではありません)。

世の中のすべての事象が裏表で成り立っています。自分自身の中にも裏表両面を持っています。いつでもダークサイドに堕ちる可能性はあるのです。ただ、仮にダークサイドに堕ちても、それは破滅を意味するわけではありません。寧ろ、色々と過去を振り返り、未来に活かすチャンスでもあるのです。先ずは真摯に自分のポジションを認識し、反省し、次に活かす。そういう気持ちがあれば、隠蔽したり悪から逃げようとは思わないと考えています。

逆に懲悪主義が強すぎると、悪が許せなくなり、悪である自分を認められずに、結果的に隠蔽やウソ、ごまかしに繋がっていくと思っています。そしてそのことは結果的に社会を不幸にします。隠蔽、ウソ、ごまかし、欺瞞が横行する世界に幸せは見いだせないのです。自分たちの幸福感を高めるうえでも、過ちに対して過剰に反応しないこと、自分自身も常にそうなる可能性を認識すること、そしてだからこそ、人にやさしくありたい。少々失敗しようがダークサイドに堕ちようが運が悪かろうが、構わないのです。多様性とは多様な価値観を愛することではなく、愛せなくてもいいから兎に角多様であることを一旦認めることです。それだけでいいのです。そういう思いが少しでも広がって欲しいと願っています。

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