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「麒麟がくる」に学ぶ人生の処世術

大河ドラマ「麒麟がくる」が大人気です。私も、とても楽しく毎週視聴しております。コロナ禍で一時中断したときは仕方ないとは言え、極力早く復活を祈ったファンの一人です(笑)

主人公・明智光秀を選んだ巧みさ

さて、そんな「麒麟がくる」ですが、主人公・明智光秀の生涯は不明点が多いことも相俟って、歴史ドラマとしては非常に「自由度の高い」演出が可能です。勿論、そこはNHK、きちんと時代考証をした上で、確度の高い説を採用していますが、それにしても文書情報が乏しいので、やはり想像の入る余地が多分にあります。逆に言えば、優秀な脚本家にかかればとても魅力的な物語になりますし、実際に池端俊策さんの手によって、とても面白く目が離せない展開になっています。

明智光秀のイメージ

そもそも明智光秀と言えば、皆さんどんなことをイメージするでしょうか?私は良いオッサンに差し掛かった歳ですが、まさに「信長の野望」世代です。「武将風雲録」はやりまくりました。そういう人たちにとって、明智は裏切り者であり、ステータスは高いものの、野心にあふれてる危険人物で要職には付けたくない、という印象ではないでしょうか。

明智光秀を一言で言えば?

本能寺の変は厳然たる事実であり、理由の如何を問わず、光秀は最終的に裏切った人物に間違いありません。ただ、他方で元々尾張の人間ではなく(麒麟がくるでは美濃と設定されましたが、これもあくまで有力な説の一つ)、織田家が旧態依然とした体質ならここまでの地位を得られる人物ではありませんでした。ただ、信長は実力を重視するタイプだったので、秀吉同様、有能な奴は上に登用するという方針に上手くはまった訳ですが、それはさておき、そのことから疑いなく言えるのは「有能な人物」だったということです。実際、織田家でも極めて重要なポジションを任され、本能寺の変の時も皆が四方八方に戦に出てる中、唯一信長親子の近くに居た訳ですから(秀吉の援軍を率いて本能寺に向かったのはご存じの通りです)。ですので、光秀を考えるうえでは、「裏切り者」とか「恩知らず」「危険人物」というレッテルではなく、結果はさておき「兎に角有能優秀な人物」で「要職に付けたい(実際付いた)人物」ということしか言えないと思っています。

「麒麟がくる」光秀の特徴①正義に忠実

前段が長くなりました。ここから本題です。そんな有能な明智光秀ですが、先述の通りその人物像は謎が多い。そこで「麒麟がくる」では、光秀はこういう人物ですよという人柄を表現するシーンを多用しています。その一つが「正義に忠実」であるということ。

例えば斎藤道三、義龍親子の争い。光秀は叔父の意向もありますが、どちらが優位かという比較ではなく、どちらが正しいかで敗戦濃厚な道三を選んでいます。また、足利義輝との関係。時代は群雄割拠に入り、もはや足利将軍の権威は地に堕ちています。ただ、光秀は義輝の人となりを見て、足利将軍家の復興を願います。これは本能寺の変の動機の一つとされ、おそらく「麒麟がくる」ではこの説を採用しています(2020年10月4日時点ではそういうストーリーになっています)。これも時代を読む巧みな政治家タイプであれば、三好なり後に台頭する織田なりにつくでしょう。織田家についたものの、あくまで足利家の家臣としての織田家を支える立場です。これが決定的に信長との溝になります(なるはずです)。

光秀は自分の正義に忠実であり、逆に言えばうまく誤魔化したりする狡猾さが欠けています。これが命取りになる、2つ目の特徴です。

「麒麟がくる」光秀の特徴②真面目過ぎる

光秀は頭の切れ味も鋭く、主君道三をはじめ、信長、足利将軍、朝倉義景等時の権力者を相手にしても物怖じせず、自分の正義に基づいた率直な意見を進言します。これは視聴者からするととても魅力的ですし、そうでなくても素晴らしい人間性ですが、時としてこういう人間性は権力者から忌み嫌われます、残念ながら。私も特に20代の頃は近いものがありました。正当性を理由に正論を上司に振りかざして陰湿な攻撃を受けたこともあります。私を支持してくれる上司も居ましたが、決して大きなうねりにはならなかった。皆さんにもそういう経験があるかもしれません。

「客観的に見て正当性があったとしても、それがその組織の論理に合うかどうかはまた別問題である」ということが間々あり得ます。上述の狡猾さとはまさにこの時の機敏を読んで権力者が求める答えを答える能力です。こう書くとクソみたいな能力ですし、実際、こういうクソみたいな能力者が権力者の周りに固められ、結果衰退する、ということもよく起こるのですが。では、なぜ、権力者はそういうクソみたいな”政治家タイプ”を重用するのでしょうか?実はここに重要なヒントが隠されています。

権力者の心理とは?

なかなか自分が権力者になったことが無いと実感しにくいと思います。私も、「社長」という名前の役職を得たことはありますが、正直権力者とは程遠い立場でしたので、権力者の心理が全てわかる訳ではありません。ただ、そういう方々と仕事をしてきましたので、良く見えてきたことがあります。

その一つが、「権力者は常に孤独」であるということです。これはよく言われていますが、間違いなくそうです。特に、自室を持っているようなタイプの権力者はほぼ間違いなくそうです。彼らは頻繁に秘書なり右腕なりを自室に呼びつけて会議をします。これは、常に不安だからです。あえて自室を作らず、事務室内に社長席を置くタイプの社長も居ます。これも同じ論理。一人になりたくないのです。

社長という役職はその会社で1人だけです。組織のトップとは原則1人です。そうすると、世の中で起こる色んな事が自分や組織にどう影響するのか。明日無事にこの机が存在するのか。組織のトップとは常にそういう不安感がつきまといます。僕はとても小さな組織ではありましたが、やっぱり毎日通帳が気になりました。これがゼロになったらどうしよう。そういう日々です。

そういう中で、この不安を少しでも払しょくしてくれる人を近くに置きたくなります。これは人間心理の根幹的な部分です。確かに意見をしてくれる人は貴重ですが、その前に安心したい。なので、意見する人を評価するようなタイプの上司でも、やっぱりそれ以上に自分の方針に合う人を大事にします。これって、普通に考えたら当然のことですよね。好きな恋人や友達と、いちいち文句言ってくる人の、どっちを大事にするのか。組織はそれだけじゃないですが、それでもやはり原点は人間関係なのです。これを崩す人は毛嫌いされてしまう。光秀は説得力があり、10月4日時点までで特に大きな恨みを買ったり嫌われたりはしていませんが、例えば10月4日の放送では、無礼講だから本音を言えと義景に迫られ、本当に本音を言って義景に嫌な顔をされています。こういう積み重ねが不要な恨みを買ってしまうのです。

少し話が脱線しますが、トップの方が講演等でこう訴えられるのを見聞きするかと思います。「学歴は関係ない」「自立心が大事」「経営者目線を持て」等々。これらは確かに持っておいた方が良いものですが、彼らがこういう人物を好むかというと、実はそうではなかったりします。第三者的なお友達としては好きかもしれませんが、自分の組織に関わる人物であった場合、どちらかというとその逆を好みます。「高学歴(日本では学歴の意味が間違っていますが、便宜上合わせます。所謂偏差値の高い大学に行った人)」「服従する人」「経営はこっちに任せて目の前の仕事に邁進できる人」が好きです。これは僕の経験上、複数の経営トップを見てきましたが、若干のずれはあれど、基本的にはこういうタイプでした。ちなみに僕はそういう言葉を真に受けてきたので、結果としてそういうトップとはあまりうまくいきませんでした(笑)

閑話休題。

明智光秀は残念ながら頗る優秀が故に、人間関係構築の優先順位を下げてしまう性格に描かれています。これは頭の良い人に見られやすい傾向です。東大京大で未だ学生運動があるのもこの傾向です。世の矛盾に気づきやすい。気付いた上で、落としどころを探るのが最も賢い人のやり方ですが、その前に正義感が勝ってしまうタイプの人もいる。光秀はこういうタイプに描かれており、それが本能寺の理由として説得力を帯びています。

「麒麟がくる」明智光秀から学べることとは?

「麒麟がくる」では、長谷川博己さんの演技力も相俟って、極めて魅力的だが少し頭の固い光秀像が見事に描かれています。私も光秀の人物像はとても共感しますし、大好きなタイプの人間です。実際、光秀は信長はじめ、多くの人から評価されていました。人間性も含めて素晴らしい人物だったと推察します。他方、その実直さ、誠実さゆえ、不要に敵を作り、自分を追い込んでしまう。そういう一面もあります。学校教育では、「正義」であること、「真面目」であることを強く求められます。その裏側にあるリスクは教えてくれません。しかしながら、全ての事柄に表と裏があります。良いと思われることにも、必ず弱点があります。それを正しく知る必要があると思います。

光秀の性格や信念も表と裏の関係性なので、なかなか難しい課題です。具体的には、足利将軍復興という目的が無ければ、信長の家臣になることはなく、越前でそのまま余生を過ごしていたかもしれません。道三の理念に共感していなければ、義龍と国を作り、やがて信長に滅ぼされていたかもしれません。光秀を光秀とする所以なので、なかなか変えがたいものだったと思います。ただ、このドラマを視聴している我々には、学ぶべき点はいくつもあると思います。それは信念理念に基づいて動く光秀を愛しつつも、時に「うまくやる」狡猾さも同時に持つべきということ。人間は完璧ではありません。それどころか、弱点だらけです。そういう汚さ、弱さもある程度受け入れる強さが必要だと思っています。僕自身、そこで悩み続けて来たし、未だに苦しいときがある。決して出世することが幸せに繋がるとは思っていないし、幸せと出世(または金)はほぼ相関性が無いと考えていますが、やはり狡猾さ、ずるさは持ち合わせた方が良いかもしれません。大抵、トップ含めて経営層と呼ばれる人たちはそういう歴戦を潜り抜けた猛者たちです。こういうずるいことをするのか、、と思わされる事がよく起こります。僕が見てきた中でも、そうじゃないタイプで偉くなった方はパッと浮かぶのは1人のみ、もう少し考えても指で折れるくらいです。その他99.9%は大なり小なりズルさを持っています。先の途中で話がずれた内容のように、口で言うことと腹で思うことが違っています。こういう人たちが牛耳っている世界だと思った方が良いかもしれません。残念ながらそういう世界に僕たちは居ます。決して美しい世界ではありません。だからこそ、強い信念を持ちつつ、時に狡猾に生きる図太さが必要ですし、そのバランスを取っていくことが求められています。

光秀が持つべきだった信念とは?

では、以上を踏まえて、光秀が持つべきだった信念とはいったい何だったのでしょうか。(もし時間があれば、この下は読まずに少し考えてみてください)

光秀は「足利将軍家の復興」を軸としました。これはある時においては正義であり、正しい。だが、一方で時代の流れを踏まえると必ずしも正解ではありません。復興より新設の方が良い場合もあります。

光秀のベースには、道三の「大きな国」という言葉と「麒麟がくる」という言葉があります。最終的には麒麟がくるような太平の世を目指しています。ここはぶれてはいけない軸だと思います。一方、前者の「大きな国」を作るべく、光秀はそれを足利家復興と読み替えます。これは時代の流れがそうならば正しいですが、この時代であればあくまで大きな国が太平の世(=麒麟がくる世)を作ると考えるべきでした。要するに、最初は「足利幕府の復興(義輝、義昭を支える)」としつつも、時代の趨勢を見ながら柔軟に「信長が作る大きな国」に乗っかかるべきだったと思います。これは完全に結果論ですし、たらればの境地みたいな話なので、全くもって意味はなさないのですが、仮に後世に生きる我々が学ぶことがあるとすれば重要なのは「足利幕府復興」ではなく、「大きな国を作る」ことだったということです。このように、信念や理念を間違えるということは今の世にもよく起こります。この軸はずらさないように気を付けたいと思っています。

「麒麟がくる」は色んな楽しみ方があろうかと思います。こういう光秀の人となりを学びつつ、反面教師にする部分も感じてみる。そういう見方をすると、もっと光秀の魅力が見えてくるかもしれません。


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