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孤独と創作【引用あり】

今回はこちらの記事を拝見して触発されたことを記していきたいと思います。
書いていく中で、気づいたら後半ふざけてしまっていますが悪しからずお読みください。


私もかつてはアーティストでした。

もちろん世に名前は出ていませんし、作品もひっそりと朽ちていっている最中です。
まぁそれは良いとして。

それでも長い時間を音楽に捧げたものの戯言をお聞きください。


埋め込みの記事の中では孤独に追い詰められてキチーっみたいな話がありまして、それに耐えて咀嚼できるから表現者足り得てるんじゃね?っていう感じの話です。超雑な要約ですが。

かくいう私も強烈な孤独感を感じていましたね。

考えすぎて気持ち悪くなっても尚眠れない夜とか。
街角へ弾き語りに出て、そこそこ人が集まってくれたけどどんどん帰って行って、でも自分は帰れなくて、朝になっても一人で歌ってたり。
分かれた恋人を想って元彼女サーチをして絶望したり(自滅)。

そんな夜を数えきれないくらい乗り越えてきました。

あれ?こうやって書くと大したことなさがヤバい。
いや、これも自分の文才の無さと諦めます。

体感としては非常にシリアスでヘビーだった事だけはお伝えしたい。

が、人は辛さすら忘れる生き物です。
出産なんかその最たるものだと思っています。
嫁も”あんな痛み、忘れでもしないと2度とやろうなんて思わない”って言ってました。

私はもうあの孤独を忘れてしまったんでしょうか。
離れてみれば、孤独が寄り添っていてくれた感覚すらあります。
傍で微笑んでくれていた気すらしてきました。
なにそのファンタジーでサスペンスな絵柄。


さておきです。

どれだけ孤独に潜ってもそれ自体はただの過程だと思ってます。
孤独や寂しさの底から拾い上げてくる”何か”。
または、どん底まで落ちた末に縋りついた”何か”。

それこそが表現の核になる。

その”何か”を表現する為に咀嚼や醸成が必要で、いろどり方こそ感性で才能なのかなと思っています。

台無しな事を言うとこんな身を削るスタイルはもう少数派だと思いますけども。
でも少なくとも私にとっては、ずっと消えない感動とか、衝撃を与えるアーティストはこういったタイプが多いのです。

迷っているその姿こそが創造的ともいえる気がします。


ここで本題に立ち返ると”孤独はどこまで必要か”。

これに明確な回答はもちろん持ち合わせていません。
誰もが納得する回答の無いタイプの問いなのは共感いただけると思います。

が、他の手段を模索して迷うのを恐れなければやめてしまう事もできるでしょう。
件の星野源さんならば、奥さんの新垣結衣さんと仲良く暮らし、不安なく、ただ生を謳歌すれば良いのです。
それで納得する曲を作れるのであればですね。
アーティスト活動は全て創作物である曲に結果が集約しますので当然と言えば当然ですよね。

というか新垣結衣さんと仲良くとかもうそれだけで満足しなよねぇ?
うらやまけしからんことこの上無しですよまったく。


とまぁ話がてんで散り散りなってしまいましたが、そういうアーティストとしてあり続けるならば恐れず潜り続けるしか無いのではないかと思います。
それすらも時間に押し流されてしまうものなのですし。
逆に考えると、
その作業に集中できるのはむしろ幸運なのではないかと、失わざるを得なかった私は思えます。

両側ともが無いものねだりなのかも知れませんね。

今回はこの辺で筆を置かせていただきます。



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