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【自分語り】欠落と寂寥感を愛せた話【自分史】

導入は幼少期まで遡る。

回りくどいが、少し大仰な自己紹介と思って聞いていただければ幸いなのだが。

かつて、自己開示が下手だった私は言いようの無い孤独や寂寥感をいつも感じていた。

きっと皆がそうなんだろう、寂寥感を抱えて生きて、孤独に死ぬのが人間という生き物なのだろうと考えていた。

実は自己開示については今も得意とは言えないがさておき、父親が寝たきりになり数年後そのまま他界に至った。

その際
私は泣かなかった。
我慢することなく、なぜか一滴の涙も流さなかったのだ。


実父の死は、小学生の私には受け止めきれなかったのかも知れない。
どこかふわふわしていて、姉が泣き崩れた火葬場でも空気を読んで神妙な顔をしていたように記憶している。

葬式で担任の先生が「気を落とさずに‥」とか、友達が私の境遇を自分に投影して泣いてたりする度、自分がどうしようもなく人でなしに思えた。

そこから欠落を強く意識し始めたと思う。

この寂寥感の根本は欠落にあるのではないか?との確信に近い想いを抱き始めるのに時間は掛からなかった。
それこそ11歳前後だったと記憶している。


友達の多い彼や彼女たちは、自分語りをし、自分の説明書を見せながら相手の反応を見て目の前の人間の人となりを知り、共通点を探っていく、というようなことをとてもナチュラルに行なっていたのだろう。

それは当時の私には高度過ぎてまるで理解できず、何故こんなにも理解されないのか、持ち前の優しさや思いやりと言ったポジティブな特性さえ受け入れられないのかと、夜な夜な苦悶していた記憶がある。

今でこそスポット的な優しさで信頼は得られないし、行動の伴わない思いやりは同情と同義だと思うが、当時の私にはいくら思考しても答えは出なかったのだし、それこそが欠落感を更にブーストしていた。


其処から長い時間が経った。
孤独と向き合うことの苦痛は減ったと感じるのだが、大元は何も変わっていなく思う。

人として大事なものがいくつか抜け落ちていて、理解されなくて、寂しくて。

しかし、しかし
いつの日か、こんな私でも人に愛された。
誰かに愛されるというのは強烈な変化を私にもたらした。
私も自分を愛せるようになったのだ。

欠落を個性とし、孤独を見つめながら記憶を反芻して、寂寥感を歌で昇華する。
今現在までそうして生きてきた。

きっと、そうして枯れ、老いさらばえるのだろう。

それはまたなんとも人間らしいと思い、密やかに気に入っている。

そんな半生である。

marusan

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