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ビター・スウィート・ロックンロール

 海棠ビルは二階から四階までが練習スタジオになっているので、地下にあるライブハウス、ウッドペッカーに出演するバンドはたいていここで練習をする。
 ケンジはビルの前に留めたワゴン車からスネアとタムのセットを降ろし、ハッチバックのドアを閉めた。車を二度叩いて運転席のタダに合図を出してから、台車に荷物を載せる。ドラムはいつも荷物が多くなるので不公平だとこぼすプレイヤーもいるが、ケンジはあまり気にしていなかった。それでも、夏の午後二時は容赦ない陽射しをケンジに向けてくるので、たった数メートル行き来しただけなのに、汗が噴き出し、肌がチリチリと痛んだ。

 三階の一番広いスタジオに入ると、ユースケがベースアンプもつながずに、目を閉じたままスケール練習を繰り返していた。ユースケは派手なプレイよりもこういう淡々とした基礎練習が好きなのだ。
「おはよう」声を掛けるがユースケは軽く首を縦に降っただけで目を開けようとはしなかった。
 備え付けのドラムセットからスネアを外し、ケンジは自分のものをスタンドに乗せた。本当は一式まるごと自分のセットを使いたいのだが、とりあえずの練習なのでそこまでの手間はかけたくなかった。椅子に腰を下ろし、ユースケの音に合わせるように軽くリズムを刻み出す。
「あれ、もう始めてるのか」駐車場に車を置いたタダがクマといっしょに入って来た。小柄で童顔のタダが、たっぷりと上背のあるヒゲ面のクマと並ぶと親子のように見えるが、この部屋にいる四人はみな同い年だ。
 タダが壁際に置かれたエレピの電源を入れた。
「じゃあ演るか」
「せっかちだなあ」ケンジは笑った。
 エレピは電源さえ入ればとりあえず音は鳴るし、チューニングも要らないから、音色さえ調整すればすぐに演奏できるが、他の楽器はそうはいかないのだ。
 ケンジはスタジオの鏡に映るクマに目をやった。クマはアンプの前のパイプ椅子にどっかりと腰を下ろしたまま、ぼうっと考え事をしているようだった。
「おーい、クマ。さっさと準備しろよ」
「ああ、悪り。すぐやるわ」我に返ったクマは、慌ててエフェクターを足元に並べ始めた。
 
 演奏が始まってからケンジは何度もユースケと目を合わせた。リズム隊にアイコンタクトは欠かせないが、今日はいつもより回数が多かった。原因はわかっている。クマだ。ケンジとユースケの息はばっちり合っているし、タダのキーボードもいい感じのグルーブを出しているのに、ギターだけがあまりにも酷かった。コードは間違うし、カッティングは雑だし、ソロだってまともに弾けていない。こんな演奏では来週末のライブなどおぼつかない。いったいどうしたのか。ユースケも首をかしげている。
「ごめん」二曲目を終えたところでクマがいきなり謝った。
「やっぱり言わなダメだわ」
「何を」
「俺、今度のライブには出られん」
 ケンジの手からスティックが落ちて、カランと音を立てた。ライブ直前の練習で伝えられるような話題ではなかった。
「ちょっと待てよクマ。なんだよそれ。どういうことだよ」
 ユースケがやや乱暴にベースをスタンドに立てるとスピーカーからゴゾッと大きなノイズが鳴る。
 クマはアンプのボリュームを絞ってからパイプ椅子を引き寄せ、静かに腰を下ろした。大きな体が二回りほど縮んで見える。
「でも、でも、俺もう決めたから」
 そうして、しばらくうつむいたあとギターのストラップを肩から外して片手でネックの根元を摑み、ゆっくりとシールドを抜いた。
「誘われたんよ。ドッグドッグドッグに」小さな声でそう言った。そう言ってから溜め息をついた。
 ウッドペッカーによく出ているバンドの中で、今のところ唯一メジャーデビューが決まっているのがドッグドッグドッグだった。
「でもドッグには宏さんがいるじゃん」ケンジが首を回しながら左右に捻った。ポキと骨の音が鳴る。
「宏さん、レコード会社の人と喧嘩して、それで辞めさせられんの」
「で、お前を代わりに入れるのか」
「それって、汚ねぇだろ」タダが口の端を歪める。
 デビュー前のメンバー入れ替え。噂にはよく聞く話だとは言え、これまで実際に自分たちの身の回りで起こったことはなかった。
「俺はデビューしたいんよ」
「待てよ。この間のライブのあと、みんなで武道館行くぞって叫んだのお前じゃねえかよ」
「わかってるだろ。このままじゃ無理なんよ。いつまでも夢語ってるだけなんていやなんよ」
「言うのかよ」ユースケが怒鳴った。「お前、今さらそれ言うのかよ」
 クマの顔が中心に寄って、真っ赤になった。
「チャンスなんよ。たぶん一度きりのチャンスなんよ」
 何か言い返そうとしたらしいユースケはそのまま唾を飲んだ。防音の施されたスタジオの中に静寂だけが広がっていく。誰も何も言わなかった。
 クマが鼻をすすった。空調が何かに共鳴したようにジジジジと小さな振動音を立てる。
 ケンジは座ったまま片手を伸ばして、床に落ちていたスティックを拾った。譜面台に乗せてから上半身を大きく伸ばす。考えなくてもわかることだった。
 高校を卒業してから、もう七年になる。ライブのたびに客の数は少しずつ増えているし、自主制作したアルバムがまったく売れていないわけでもない。むしろ同世代のアマチュアバンドの中ではどちらかといえば売れているほうだ。
 それでも限界ははっきりと見えていた。
 何とかここまでやって来たけれども、やがてメジャーになって売れて行く連中とケンジたちとでは決定的に何かが違っていた。楽曲が良くても、演奏が巧くても、その何かが無ければ武道館へ行くことなど出来ないのだ。
 かつて一度は手にしかけていたはずのその何かは、もう失われて久しかった。そして、ケンジたちはそれでも構わないと思っている。いや、むしろこのままでいいとさえ思い始めている。
「じゃあ、俺、行くから」クマがゆっくりと立ち上がった。
 スタジオのドアにはめ込まれた大きなハンドルを回すとゴトンと音が鳴った。そのまま躊躇いがちにドアを引く。そうして、静かに一歩足を踏み出したところで止まった。上半身をまっすぐに起こして、三人を見る。
「俺、行くから」もう一度言った。「武道館に」そうつけ加えた。
 さっきまで縮んでいたクマの体は、なんだか元よりも大きくなったように見えた。

「バンドって不思議だよな」しばらくぼんやりしたあとで、ケンジがぽろりと口にした。
 言葉の意図がつかめないらしくユースケが困った顔になる。
「だってさ、ギターが抜けたらギターの音は鳴らないんだよ」
「そりゃそうだろ。弾くやつがいなきゃ楽器は鳴らない。何当たり前のこと言ってんだよ」
「まあ、そうなんだけどさ」
「はい、これ」
 タダがクーラーボックスから取り出したビールの小瓶を二人に渡す。普段は練習が終わってから飲むのだが、今日はもう練習を続けることは出来なかったし、たぶん練習する意味もなかった。
「これなに?」いつもの缶ビールと違う。
「クラフトビールってやつ」
 タブを引いてキャップを外すと夏の匂いがした。少なくともケンジはそれを夏の匂いだと思った。何か取り返しのつかないものを置いてきた場所の、どこか懐かしくてじれったい匂いだ。
 瓶はたいして冷えていなかった。ゆっくりひと口目を飲んだあと、ケンジは鼻から静かに息を吐いた。
「ビールって苦いんだよね」
「何だよお前、知らなかったのか」ユースケが笑った。
 ケンジはじっと手元の小瓶を見つめた。栗皮色のガラスを透して見える液体が揺れている。弾く者がいなければ楽器は鳴らないし、ビールは苦いのだ。当たり前のことなのだが、それがなぜか当たり前に思えなくなることがある。ケンジはそっと首を回すようにしてユースケに目をやる。
「うん。知ってたけど、たぶん知らなかったんだ」
「なんだよそれ」タダが眉間にしわを寄せた。
「飲んでいるときは甘さもあるんだけど、あとに残るのは苦さなんだよ」
「甘くて苦い」
「そう。でも、苦いのって悪くないよね」
「苦いのも悪くない、か」
 そう言ってユースケは手にした瓶に視線を落とした。瓶先を傾けて唇に当てる。グゴリと音がしてユースケの喉仏が大き動いた。
 ケンジも瓶を口に当てて残りのビールを飲み乾した。ぷふう。ものを飲むと必ず鼻から息が出るから不思議だ。
「武道館、本気で行きたかったんだな、クマは」タダが言う。
「僕だって行きたいよ」
「本気度がちがうんだよ、お前とクマじゃ」
「あーあ、やっぱり僕らじゃ無理なんだなあ」
「あたりまえだろ」
 そう。だからバンドにではなく、クマだけに声がかかったのだ。それが現実なのだ。
「なあ、ケンジは覚えてるか。最初のライブ」
「うん」
 小さな街の小さな公会堂。まだ四人とも中学生だった。文化祭へ出ることをきっかけに、夏休みに結成されたバンドは文化祭が終わったあともなんとなく惰性で続き、同じ高校に進んだ四人はやがて本気になった。すべてはあの夏に始まったのだ。
「あのときの打ち上げ、コーラだったんだよなあ」
「しかたないじゃん。中学生なんだからさ」
「教師同伴の打ち上げなんてロックじゃないってクマがえらく怒ったっけ」
「うん。クマはけっこう本気だったね」
 高校を出たあとアルバイト先はバラバラになったが、始めの数年はほとんどの時間を一緒に過ごしてきた。いつか絶対に武道館で演ろう。最初は誰もが本気でそう口にしていた。そして夏が来るたびに、それはいつしか夢から単なる憧れに変わっていった。
 やがてタダはアルバイト先での働きぶりが認められて正社員になり、ケンジとユースケには恋人ができた。このままでも悪くない。もう大人なんだ。バンドは趣味として楽しめばいい。
「僕たちはいつ諦めたんだろう」
 諦めなければ夢は叶うなんて言葉は、結局のところ夢を叶えた一握りの幸運な人たちのもので、しかも、それは叶えたあとだから言える話なのだ。ほとんどの人間はどこかで諦めるし、夢が叶うこともない。
「クマはいつも本気だったよね」
 ケンジが空になった瓶を置くと、濡れたテーブルの上で瓶がほんの少し滑った。「あのときから、ずっと本気だったんだよね」
 口の中になんとも言えない苦みが広がる。どれほど甘くても、あとに残るのは苦さなのだ。
「屋上に行こうぜ」ユースケが立ち上がった。

 薄暗い階段をゆっくりゆっくり上がり切り、重い金属のドアを押し開けると、風の音とともに光が一気に差し込んだ。一瞬、目が眩む。
 三人は屋上に出た。陽はずいぶん傾いていたが、まだ明るかった。海の向こう側には夏の雲が立ち上っている。濃紺から赤茶色のグラデーションを背景に、雲は悠然と広がっていた。
 屋上の端に立った三人はしばらく黙ってただ海を見つめた。
 どこかでカラスが鳴いた。その声に応えるように、あちらこちらでカラスたちが一斉に鳴き始める。遠くの海で汽笛が鳴った。
「クマがさ、本当に武道館へ行ったらどうする?」ケンジが言った。
「そりゃ、俺たちは関係者席だろ」
「なんかさ、わざとコーラで乾杯したくない?」
「なんでだよ」
「なんとなくだよ」ケンジはゆっくり頭を上げた。真上を見ると視界の隅々までが空で埋まる。
「クマはさ、すごいよなあ」そのままぐいと頭を大きくそらすと、空が世界そのものになった。
 ケンジたちとクマとはいったい何が違っていたのだろう。なんだかよくわからないようで、でも本当はなんとなくわかっていた。クマはここにいる三人とは別の道を歩き出したのだ。そしてたぶんもう同じ道を歩くことはない。
 ふいに足元からドンと振動が伝わって、ケンジは頭を戻した。四階のスタジオで誰かがドラムを叩き始めたようだ。スネアが少しばかり走り気味だけれども、グルーブは悪くなかった。
「おう。今叩いてる奴、ケンジより巧いんじゃないか」ユースケは伝わってくるリズムに合わせて屋上の手すりをパンパンと叩き始めた。
「じゃあ、誘っちゃう?」
「おいおい、そうしたらお前の居場所がなくなるぞ」タダが馬鹿にしたように首を振る。
「だったら、僕、ギターの練習するよ。クマの代わりに」
「ケンジってさ、本当に脳天気だよな。この先、何があっても平気なんだろうなあ」
 ふわりと飛ぶようにしてケンジは手すりを離れた。そのまま体を回転させて屋上の真ん中へ向かう。
「人生はきっといつも苦いんだよ」ケンジは二人を振り返った。二人とも顔が赤いのは夕陽を浴びているからだろう。
「だけど、苦いのも悪くない。そうだろ?」
「まあな」
「だったら、苦さを楽しまなきゃね」
 やけに大袈裟な身振りでケンジがそう言うと、ユースケが大声で笑い出した。タダとケンジもつられて笑う。笑いながらお互いの背中をバンバンと叩き合った。
「クマぁー」いきなり手すりのところまで走って、ケンジが叫んだ。
「クマー」二人も叫ぶ。
 奇声を上げて互いを叩きながら、しだいに三人の目が潤む。街も海も雲も空も、何もかもが歪んで見えた。あの日から続く夏が滲んでいる。それでも三人は笑っていた。笑わずにはいられなかった。
 このままずっと笑っていたい。ケンジはそう思った。
 口の中には、まだ苦さが残っていた。

この短編小説は、キリン×note の「 #あの夏に乾杯 」コンテストの参考作品として書いたものです。
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いつだってエブリデイ!
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