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最後の瞬間に

9月1日発売の新刊『どこでもない場所』用に書いていただいたものの、ページ数の関係で収録できなかったエッセイもありました。マガジン用のおまけとしてお楽しみください。(おまけ3分の1本め。)

 何もないところに、と言ってしまうと少し失礼になるけれども、ともかくその小屋は周りにほとんど建物の建っていない幹線道路の脇にぽつりとあって、まもなく訪れる夕暮れとともに黒い影になろうとしていた。小屋の後ろへ目をやった僕の視界の中には雪の積もった白い平野が広がり、その向う側では白い冠を被った中央アルプス山脈が先端を尖らせている。
 細い丸太を組み合わせて造られたせいぜい五メートル四方ほどの小屋の重いサッシ戸を引き開けて中へ入ると、三方の壁にはベンチが作りつけられていた。人は誰もいない。
 僕はベンチに腰を下ろし、小さな赤いキャリーバッグを足元へ引き寄せた。中央に置かれた石油ストーブが、ときおりパチッと何かの爆ぜるような音を立てている。
 しばらく携帯電話などを触っていると車の駐まる音が聞こえて、一人の男性が小屋の中へ入ってきた。若い男性で、ベージュ色をしたつなぎのような服を着ていた。小さなナイロン製のバッグを肩に掛けている。
「長野ですか?」男性は言った。
「はい」と僕は答える。
 その小屋は路線バスの待合所だった。バスは雪の積もる山間の小さな集落から長野駅までを二時間弱で結んでいる。
「切符はお持ちですか?」
「ここで買えるんですよね」そう聞いていた。
「ええ」男性はバッグのファスナーを開き、ひと綴りになったチケットを取り出した。蛇腹を開くようにして一枚を切り取り、僕に渡してくれる。
「もうすぐ来ますから。あと十分ほどです」
「何分間隔なんですか、バスは?」
「一時間半に一本です」
 どうやら僕は運が良かったらしい。特に時刻表を調べて来たわけではなく、鉄道を使うとどんなに上手く乗り継いでも東京まで七時間ほど掛かることがわかったので、タクシーの運転手さんのすすめでバスを利用することにしたのだった。もしもバスが出た直後にここへ来ていたら、一時間半待つことになっていただろう。
「便利なんだけど、遠くから来た人はあまり使わないんだよね」年配の運転手さんはそう言って僕を小屋まで運んでくれた。「待っていれば、係の人が来るから」
 そうしてやって来たのがベージュのつなぎを着た彼というわけだ。
 つなぎの彼から切符を買い、再びベンチに腰を下ろしたあと、電池がもうあまり残っていなかったので僕は携帯電話をポケットにしまいこみ、ぼんやりとサッシの窓から外を眺めた。昼前からチラチラと降り始めていた雪はだんだん激しくなっていて、予報では東京でも今夜は大雪になるとのことだった。係の人はベンチに座らず、壁際に立ったままだった。
 ふいにサッシ戸の向こうに人影が浮かび、戸が開かれた。若い男女がそれぞれ大きなボストンバッグを持って入ってきた。どちらも二十歳前後だろうか。男の子はボストンバッグのほかに大きなリュックサックを背負っていた。どこか幼い表情をした二人は、緊張しているかのように室内を見回した。もちろん僕と係の人しかいない。男の子はふうと大きな息を吐いて荷物を床に置いた。女の子は伏し目がちのまま口元を堅くしている。
「長野ですか?」係の人が二人に聞いた。
「はい」男の子がうなずいた。
「何枚?」
「二……」男の子がそう言い掛けた瞬間、その声を女の子が遮った。
「一枚です」泣き出しそうな小さな声だった。
 男の子はびっくりしたように顔を女の子のほうへ向けた。係の人は不思議そうな顔で二人を見る。僕のいる場所からは彼女の後ろ姿しか見えないので、どんな表情をしているのかはわからなかった。
「一枚です」彼女は今度ははっきりとした声で言った。
「でも」彼が言う。怒っているような口調だった。
「だって無理だから。やっぱり無理だから」彼女はそう言ってからマフラーを巻き直し、顔の下半分を隠した。
 もちろん僕は部外者なので本当のことはわからないし、勝手な想像をしているだけなのだけれども、たぶん二人は一緒に長野へ行く約束になっていたのだろうし、荷物の大きさから考えると、単純なお出掛けでもなさそうだった。小さな田舎の集落を離れて二人は長野からもっと先へ、さらに遠くの街へ行こうとしていたのかもしれない。
 彼女はずっと迷っていたのだろうか。いつ「行けない」と言い出そうかと迷いながら、それでも大きなボストンバッグを用意して、彼と一緒にこの小さな待合所へやって来たのだろうか。それとも、ここへ来るまでは彼と一緒に行くつもりだったのだろうか。少なくとも切符を買おうとするその瞬間までは。
 男の子はいったいどうするのだろう。僕はドキドキしながら二人の様子を窺っていた。彼は顔を彼女から背けてじっと黙っている。係の人が蛇腹になった切符の綴りを手にしたまま困ったように僕を見た。
 もしも僕ならどうするだろうか。強引に彼女を連れて行こうとするだろうか。それとも、君が行かないのなら自分も行くのをやめると言うだろうか。あるいは自分だけでバスに乗ろうとするだろうか。僕にはわからなかった。わかったのは、二人が別々の道を選ぼうとしているということだけだった。
 目の前で道が分かれているとき、僕は少しずつどちらかの道を選ぶわけではない。ギリギリまで前に進み、最後の最後にどちらかへ足を一歩踏み出すのだ。どれほど考える時間があるように思えることでも、結局のところ僕は最後の瞬間に選択をする。どんなに想像しても、いくら心の中で準備をしていても、その瞬間になってみないと自分がどう行動するかはわからないし、たいていの場合、自分がそれまで思ってもいなかった行動をとってしまう。
 僕には同時に二つの道を歩くことができない。一つの道を選ぶことは、もう一つの道を諦めることだ。それでも僕は選ぶしかない。そうやって僕は生きていく。そしていつの日か、選ばなかったほうの道を歩く自分を想像し、後悔するのだ。
「長野まで、一枚で」絞り出すような声だった。最後の最後の瞬間に、彼は一人で行くことを選んだようだった。
 本当にそれでよかったのか。別の道はなかったのか。それは誰にもわからない。もしかすると二人は、最初から違う道を歩いていたのかもしれない。今日でなくとも、いずれ別の道を歩いていたのかもしれない。それも誰にもわからない。
 それでもきっと、この日の選択を彼はいつまでも後悔するだろう。そして、行くことを躊躇った彼女もまた、この瞬間をずっと後悔し続けるのだろう。
 唸るようなエンジンの音を響かせてバスが到着した。僕は二人よりも先に小屋を出て、バスに乗り込んだ。曇った窓ガラスをパーカーの袖で拭い、外を眺めた。シューという空気が漏れるような音とともにドアが閉まり、バスは走り始めた。小屋の外に立った彼女は顔をマフラーで隠したまま、ずっと僕たちの乗ったバスを見つめていた。


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