見出し画像

一番の願い事

 金曜から徹夜が続き、なんとか井間賀が職場を出られたのは日曜の朝になってからだった。とは言ってもまだまだ仕事が終わったわけではない。一度帰ってシャワーを浴び、着替えたらすぐに出社するつもりだった。
「あああ」
 ビルのエントランスを抜けたところで井間賀は大きな溜息をついた。曇っているのに日差しが目に入って眩しかった。全身がやけに重い。
 足を引きずるようにフラフラと自宅へ向かっていると、八幡神社の境内で蚤の市が開かれているのが目に入った。
「そうか、日曜だもんな」
 まだ朝早いのに、それなりに人の気配がある。こっちは徹夜明けでフラフラなのにみんなが楽しそうにしているのが妙に気に入らなかった。
 坂下から続く長い階段の横に広げられたブルーシートの上で井間賀は視線を止めた。
 古いランプが一つだけぽつりと無造作に置かれている。鈍い銅色の金属でつくられたそのランプは、油を入れる壺から片口が長く伸びて、ちょうど中東のおとぎ話に出てきそうな形をしていた。まわりには梅の花が落ちている。
「あ、それ魔法のランプ」
 ブルーシートの端に四つ並べたパイプ椅子の上で、器用に寝転がってスマホをいじっていた若者は、寝転がったまま顔だけを井間賀に向けた。
「知ってっしょ?」
と、やけに馴れ馴れしい口調で言う。
 井間賀は軽く頷いたあと思わず苦笑した。たぶん知り合いに店番を頼まれたのだろう。客の相手をする気などまるでなさそうだった。まったく暢気なものだな。
「擦ると巨人が出てくるヤツか?」
「巨人じゃなくて魔神だし」
 若者はパイプ椅子の上でだるそうに半身を起こし、ゆっくりと足を地面につけた。スマホを座面において両手を高く上げる。長く伸びたボサボサの髪に無精髭。中途半端な袖丈のジャージから飛び出した裸足に履いたスニーカーは靴裏のゴムが剥がれていた。
「ふわああ」
 大きなあくびだった。馴れ馴れしいだけでなく遠慮もないらしい。
「魔神は巨人ほどデカくねぇし」
「巨人ほどってことは、それなりにデカいのか?」
「別に。普通」
 若者は不満でもあるかのように口をひょいと尖らせて肩をすくめた。
 井間賀は疲れがより一層ひどくなったような気がした。いちいち文句を言う気はないが、こういうダラダラした態度の若者が最近は多すぎるのだ。
「で、これは誰が擦っても出てくるのか? その、魔神が?」
 そう言って井間賀はランプを指差す。
「そりゃ出るっしょ」
「願い事も言えるのか?」
 若者は眉を内側へキュッと寄せた。当然だといわんばかりの顔である。
「じゃあ、もらおうかな」
 買ったらすぐに擦って、若者に嫌味の一つも言ってやろうという意地悪な気持ちが井間賀の腹の底に溜まっていた。
「マジで? いいんスか?」
「それはこっちが聞きたいよ。俺がこのランプを買ったら商品がなくなっちゃうけど、いいのか?」
「別に。どうせ最初からこれしかねぇし」
 若椅子から立ち上がった若者は、足元にあったカップ麺の空容器を蹴飛ばしてから、ランプを拾い上げた。
「ラッピングとかする?」
 口ではそう言いながら、すでにランプを手渡そうとしている。
「いや、そのままで構わない」
 井間賀は首を捻った。ここにはブルーシートとパイプ椅子しかないのに、彼はどうやってラッピングをするつもりなのだろうか。何も考えずに適当なことを言っているのだ。
 財布から抜き出した札と交換でランプを受け取ると予想以上に軽かった。コンコンと手の爪で弾いてみると、金属特有の硬く高い音が鳴る。鼻を近づけると煤と埃の匂いがした。
 井間賀は油壺の中を見ようと、片手で取っ手をしっかりとつかみ、もう一方の手でランプの蓋を開けようとしたが、硬くて蓋は開かなかった。力を入れ過ぎて手が痛い。 
「あ、それ開かないっていうか、開けちゃダメだし」
 いつのまにか若者はパイプ椅子の上に戻って横になっていた。おそらく普段から家の中でもこんな感じでダラダラしているのだろう。
「どうして開けちゃいけないんだ?」
「だってそれ、魔神の家っしょ」
 なるほど若者の言うとおりだ。擦ればすぐに出て来るのだとしたら、きっとこの中に住んでいるのだろう。
「ふむ」
 魔法のランプの正式な擦りかたなどわからないが、とりあえず手で油壺の横を二、三度ばかりキュッと擦ってみた。何も起こらない。もう一度、こんどは五、六回激しく擦る。摩擦で手が熱くなったが、やはり何も起こらなかった。当たり前だ。いったい俺は何をやっているのだろうと、井間賀はランプの魔神なんて話を一瞬でも信じた自分を情けなく感じた。
「ダメだな」
「何が?」
 若者が首を持ち上げて聞く。
「いや、今さ、ランプを擦ったんだよ」
「はあ。知ってるっス」
「でも、魔神なんて出て来ないじゃないか。魔神が出て来ると君が言ったから俺はこれを買ったんだよ」
「いや出るから。だって自分が魔神っスから」
 若者はパイプ椅子の上で再びゆっくり上半身を起こしてから、ひょいと足を回してそのまま腕の力で軽く飛び上がった。足から地面へ軽やかに降りてすっくと立つと、体の周りにうっすらと光の粒が浮かんでいるように見えた。
「え?」
 虚を突かれて井間賀の口がぽかんと開く。
「最初から出てたら、もう出られないっしょ」
 このだらしない若者が魔神なのか。井間賀は自分がちょっぴり苛つくのを感じた。
「あのさ、なんで表に出てるんだよ? 中にいないとダメだろ?」
 棘のある口調で言う。
「あ、だってランプの中、めっちゃ狭いし」
 魔神は悲しそうな顔つきになった。
 井間賀は視線を落として手にしたランプを見る。確かにこの中で暮らすのはいろいろと厄介ごとがありそうだなと思った。
「でもやっぱり、俺が擦ってから出てくるってのが正式な段取りじゃないか?」
 どきどきしながらランプを擦ると中から魔神が出てくる。それから願い事の交渉に入る。それが一つのセットメニューだろう。ランプを擦る前から魔神が表に出ているのは、最初から中身の見えている福袋のようなものだ。
「お客さんのその喩え、ちょっとわかんないス」
 この場合のお客さんとは、蚤の市の客という意味なのだろうか。それとも呼び出した者は魔神の客になるのだろうか。
「だからせっかくのお楽しみが減ったってことだよ」
「いやあ、お客さんの手間も減ってコスパいいと思ったんスけど」
 魔神はもう一度悲しそうな顔になる。
 井間賀は呆れたように首を振った。だから最近の若いヤツらがダメなんだ。すぐにコスパだのタイパだのと楽をすることばかり考えるのだ。
「ダメとまでは言わないけど、ちょっとがっかりしたんだ。やっぱり段取りはちゃんと踏んだほうがいいよ」
「はあ」
 魔神はぼんやりとした目で井間賀を見ている。
「まあ、いいさ。悪気はなかったんだろうし」
「で?」
 すっと井間賀に向けられた魔神の顔にはもう悲しげな表情など残っていなかった。気持ちの切り替えも、立ち直りも早いのだろう。
「何が?」
 井間賀は怪訝な顔になる。
「あ、願い事」
「ああ、それか。それはあるのか」
「いちおう三つ言えるし」
「なんで?」
 井間賀は抑揚を押さえた声で聞いた。
「え?」
 魔神の目が丸くなる。
「なんで三つなんだ?」
「いやそれは自分も知らないっス」
 昔からこの手の願い事は三つと決まっているが、あれはおかしいのではないかと井間賀は以前から感じていた。三つもあるから、どの順番で何を願えばいいだろうなんてことを考えて失敗するのだ。たいていのおとぎ話では、欲に目のくらんだ連中が素直に願い事を言わず、叶えてもらえる願い事の数をなんとか増やそうとする。もらった幸運をぜんぶ使わず、一部を投資に回そうとする。
「願い事までコスパを重視してどうするんだよ、なあ」
「はあ?」
 一番の願い事を一つだけ。それでいいじゃないか。
「一つじゃダメなのか?」
「え? 一つっスか? えーっと、ちょっと待って」
 魔神はポケットからスマホを取り出し、何やらテキストを入力し始めた。
「いま、上の人に聞くんで」
「上の人?」
「いちおう、会社っていうか、そういう組織なんで」
 そう言って魔神はパイプ椅子を引き寄せ、井間賀の傍らに置いた。
「これ」
と、椅子を指差す。おそらくここに座って待てということなのだろう。とにかく言葉が足りないのだ。
「はい、ええ。一つです。一つでと、ええ、お客様のご希望で。あ、いえそれはまだこれからです。ああ、なるほど。繰り越しですね、はい。あ、手帳に? 川ですね。ええ。あ、はい。存じております。四番窓口ですよね。あっ、違います違うんです、最初から一つなんです」
 魔神はブルーシートから少し離れた場所で電話をしていたが、声ははっきりと井間賀の耳に届いていた。ときおりチラリとこちらを見る魔神の困ったような目つきからも、どうやら話がややこしくなっているように思えた。
「ええ。それはもうお客様の、はい。あ、そうかも。確かにそうですね。干物? 干物ですか? あっヒモですね。紐。かしこまりました。そのようにお伝えします」
 井間賀はゆっくりとパイプ椅子に腰を下ろし、あまり魔神を見ないようにしながらのんびりと周囲を見やる。軽い気持ちで言っただけなのに、もしやクレーマーのように思われていないだろうかと心配になっていた。
「あ、それと例の店はこんど予約しておきますから。はい私が。ええ、会費制です。かしこまりました、恐れ入ります。はい、はい。それでは、あらためてご連絡差し上げますので。はい。どうもありがとうございました」
 ぼんやりと電話の声を聞いているうちに井間賀の胸にふと疑問が浮かんだ。この魔神、だらしない若者かと思っていたら電話ではこんなにちゃんと話せているじゃないか。なんで俺に対しては横柄なのだ。会社の上司にはきちんとした態度で接するくせに外部の人間には横柄に振る舞うタイプなのか。気に入らない。若いだけになおさら気に入らない。 
 電話を終えた魔神が井間賀の元へ戻ってきた。
「いいっスよ」
 明るい顔で言う。
「何が?」
「だから一個でオッケーっス。どうぞ」
「ふん」
 井間賀は鼻から息を吐いた。

ここから先は

410字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?