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あいまいな指示

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 マホガニー製の執務机に置かれたいくつかの書類に目をやり、ブルーブラックのインクでサインしたあと、局長は傍らにじっと立っている補佐官に向かって黙ったまま軽く頭を振った。補佐官も黙ったまま頷くと機械のような動きで大きなドアの前へ進み左右につきだした黄金色のドアノブをつかむ。
 ほとんど音を立てないまま一気に戸を引き開けると扉の向こう側から完璧に身なりを整えた二人の女性が現れた。補佐官は何も言わずに首を素早く回して、顎の先で室内を指す。
 二人は悠然とした足取りで部屋の中央まで進み体の向きをくるりと回転させるとピタリと足を揃えて立ち止まった。優雅な身の振る舞いだった。
「スパイ〇一四号とスパイ〇一五号です」
 二人の後ろから補佐官が落ち着いた低い声で言う。
 二人は名前を呼ばれた瞬間だけ、それぞれが僅かに首を縦に動かし、それが自分の番号であることを示した。
「よく来てくれた」
 執務机から離れた局長は机の前に置かれた応接セットのソファにゆったり身を委ねながら二人に向かって向かい側のソファを手で示した。
「さあ、座ってくれ」
 二人は軽く頷いてソファのすぐ近くまで足を進めたが腰は下ろさずそのままソファの横に立って局長を見つめた。正しい行動だった。ソファには仕掛けがあった。腰を下ろせば床に穴が開き奈落の底へ落とされてしまう。
「さすがだな」
 局長は満足そうに言うとローテーブルの裏に隠されたスイッチに触れた。
「これでいい」
 仕掛けが解除されたと見て、ようやく二人はソファに腰を下ろしたが、いつでも立ち上がれるように足の筋肉は緩めず、けっして深く座ることもなかった。この慎重さが二人を一流のスパイとしてここまで生き残らせてきたのだ。
 局長は上着の内ポケットから一枚の写真を撮りだしテーブルの上を滑らせた。
「今回のターゲットだ」
 ちらりと写真に目をやった二人の表情には何の変化はなかった。だが瞳の奥には動揺の色がごく微かに浮かんでいる。
「そう。この男だ」
 そこに写っていたのは同じ情報局に所属するスパイだった。
「彼は我々を裏切った可能性がある」
 二人はテーブルの写真に再び視線を落とすと、じっと見つめたまましばらく黙り込んだ。
 スパイ〇〇七号。あらゆる困難を撥ね除け確実に目的を完遂する伝説のスパイであると同時に仕事のたびに浮名の流れるプレイボーイとしても知られていた。
「それで彼をどうしろと?」
 〇一五号が低く落ち着いた声で聞いた。
「もちろん明確な証拠がない以上、彼を排除するのは上が許さない」
「ええ」
 〇一四号が頷いた。
「そこで〇〇七号を機能不全にして欲しいのだ」

「機能不全?」
「スパイとして役に立たない存在にして欲しい」
 局長はそう言うと写真を手元に引き戻しライターで火をつけた。一瞬で燃え上がった炎が〇〇七号を食い尽くすように広がっていく。半分ほど燃えたところで局長はスチール製のゴミ箱の中へ写真を投げ落とした。
「君たち二人の美貌と魅力で彼を骨抜きにするのだ」
「いいんですか?」
 〇一五号が冷たい微笑を浮かべる。
「さすがのプレイボーイも君たちにかかればイチコロだろう」
 二人はそっと意味ありげな目交ぜをしてから静かに頷いた。
 局長はゆっくりと立ち上がり二人には目もくれず執務机へ戻って行った。話は終わったのだ。ここでの会話はすべてなかったことになる。
「必要なものはすべて手配する。さっそく取りかかってくれ」
 補佐官が言った。

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