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鉄そば


 川沿いに一軒のそば屋がある。これが例の鉄そばだ。おそらく店主の名前が鉄だから鉄そばなのだと思っていたら、どうやら元々は屑鉄屋だったかららしい。一念発起して、潰れかけていた古い蕎麦屋を老夫婦から買い取り、新装開店したのが三年前のことだという。店名の通り、鉄を出す蕎麦屋だ。
 店主は社長と呼ばれていて、日頃からかなり鉄を食べる、いわゆる鉄喰いの一人だ。客がいても気にせず食べているから、よほど鉄が好きなのだろう。常連客は慣れっこだが、一見さんの中にはバリバリと鉄棒を頭からかじる社長を見て、顔色を変える者もいるから、まだまだ鉄喰いが完全に市民権を得たとは言いがたい。
 いつごろから鉄喰いが現れたのかには諸説あるが、少なくとも人類が鉄を作るようになってから登場したわけだから、歴史的に見れば鉄喰いの誕生はごく最近のことになる。
 世の中に広く鉄喰いが知られ始めたころは、まだ誰もそれほど騒ぎはしていなかった。せいぜいテレビのバラエティー番組が鉄を食べるおかしな人たちが現れたと面白おかしく紹介していたに過ぎなかった。けれども、その数が増えていくにつれて、ついに政府も非常事態宣言を出して注意喚起をするようになり、それと同時に人々も鉄喰いを恐れるようになった。
 ご存じの通り、鉄喰いの多くは理性的な人たちだし、節度を保って鉄を食べている。けれども人の性格はそれぞれだ。中には溶けた鉄に酔って理性が消し飛び、凶暴化する鉄喰いだっている。鉄喰いは体が硬いから、一度暴れるとどうしても被害が大きくなってしまうのだ。
 さすがに東京タワーの根元がかじられて倒れたときには、鉄喰いにもいいやつと悪いやつがいるなんて暢気なことを言う者は周囲からの激しい攻撃を受けたし、松梅線の線路がすべてなくなったときには、もはや誰も鉄喰いを擁護しようとはしなかった。
 それでもマジメな鉄喰いたちが中心となってルールを作り、時間をかけて安全をアピールした結果、今ではある程度の認知は得られている。
 何よりもここ数年、積極的に自治体との取り決めを行ったことは、鉄喰いの地位向上につながっていた。彼らの食べる鉄の多くは解体された自動車や建設現場の廃材、工場から出る廃棄物だから、増える一方のごみ処理に困っていた自治体は鉄喰いの登場を歓迎したのだ。
 けれども、ゴミを食べる汚い連中だと言って、未だに鉄喰いを忌み嫌う人たちは少なくない。鉄喰いが近づくだけで、あからさまに顔をしかめる者さえいるのだ。
 だから鉄そばのように堂々と鉄料理を出している店は珍しかった。もともと地元の由緒ある蕎麦屋だったからこそ周囲とも何とか仲良くやっているが、もしもこれが新しくできた店だとしたら、これほどうまくはいかなかったはずだ。新しくできた鉄喰いの店はどれも数年経たずに廃業している。客が来なかったのではなく、周囲の嫌がらせに屈したのだった。
 鉄そばがなんとか続けていられるのは、そんな経緯に加えて、社長の誠実な人柄と客の礼儀正しさがほどよくバランスを保っているからだろう。ふだんは鉄喰いであることを隠してコソコソと廃品を食べている鉄喰いたちも、この店に来るときだけはリラックスしているように見えた。
 鉄そばの品書きには店名そのままの鉄蕎麦や熱し鉄蕎麦、鋼鉄天など鉄喰い向けの品も載っていて、せっかくだから記念に一度くらい頼んでみたいのだが、どう考えても鉄は食べられそうにないから、いつも品書きの写真を眺めるだけに留めている。熱し鉄蕎麦なんて品は、真っ赤になったドロドロの溶鉄が器にたっぷりと入っていて、近づくだけで火傷しそうだった。
 その日は珍しく客が少なく、ランチを済ませたカップルが出て行くと。テーブル席の丸古とカウンターで鉄蕎麦を啜っている男だけが店内に残された。名前まではわからないが平日の昼どきにときどき見かける顔で、店で出会えばお互いに会釈くらいはする間柄だった。
 どうやら社長も一息ついたらしく、厨房からのっそりと出てきてテーブルの上で新聞を広げ始めた。厨房ではアルバイトの若者が洗い物をしている。
 丸古が食べているのは山菜そばだが、いわゆる山菜のほかにほうれん草が入っている。
「ほうれん草には鉄分が多いんですよ」
 社長はそう言ってニヤリと笑った。鉄喰い用のメニュー以外にもこっそりと鉄分を混ぜているのだ。
「社長はいつから鉄を食べるようになったの?}
 前々から尋ねたいと思っていたことだった。
「俺ですか。物心ついたときには食べてましたねぇ」
 社長は丸古より一回り年下に見えるが、確かもうすぐ還暦を迎えるようなことを言ってたから、そうなると五十年以上は鉄を食べていることになる。
「ずいぶん食べているわけだな。私なんて三十半ばを過ぎたあたりから脂っこいものさえ全然だめになったのに、よくもまあ鉄なんて食べられるね」
「いやいや俺も脂っこいのはもうだめですよ。チェーンなんてもう無理」
「チェーンって自転車のかい?」
「あれって、油がたっぷり付いているんですよ」
 不意にカウンターの男が会話に参加してきた。どうやら蕎麦は食べ終えたらしい。茶を飲みながら体の向きをこちらへ向けている。
「ああ、確かにチェーンってベトベトと黒いものがついていますね」
「ええ。あれがしつこくて」
 社長が頷いた。
「だからもう最近は、ネジとかワッシャーとかそういう小さいものばっかりですね」
「鉄喰いにもいろいろあるんだねぇ」
 丸古は嬉しそうに顔を軽く振った。なにごとも聞いてみないとわからないことばかりだ。
「そういえば、最近、家に帰るとマグネットがやたらくっついているんですよ」
 社長が新聞の目をやりながら言う。
「あーそれわかるわ、あれだろ」
 カウンターの男が大きな声で同意した。なんでも、水道修理の案内など冷蔵庫に貼れるようになっているタイプのチラシ。あれが体に付くらしい。
「俺もよく背中についてるよ」
「あれ鬱陶しいですよね」
 社長はそう言って肩をすくめる。
 二人の会話を聞きながら丸古は大きめの蕎麦丼を両手で持ち、出汁を半分ほど飲んだ。益子焼だろう。淡いクリーム色に粒模様が入っている。
「ふう、ごちそうさま」
 割り箸を揃えて盆の上に置いた。
「あ、今、お茶を足しますね」
 アルバイトが水差しに入った麦茶を丸古のグラスに注ぐ。湿度が高いのか、あっという間にグラスに水滴がついた。
「おや?」
 社長はカウンターの男と話をしながら新聞のページを次々にめくっていたが、ふいに手を止めて記事に顔をぐっと近づけた。

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