空気をきれいに保ちたい

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

　大会議室に入るとすぐ、ねずみ色をした大きな金属製の箱がうしろの壁際に置かれていることに宅羽千紗たちは気づいた。高さ二メートル近い箱は、掃除用具を入れるロッカーに似ているが、それぞれの角は丸く加工されていて全体的に柔らかい印象を受ける。
　みんな気になってはいるものの、今はまず午後からの役員会に備えてあれこれと用意をしなければならないから、誰も箱については何も言わずに淡々と作業を進めていた。
「あれ何なの？」
　最初に口に出したのは営業部の汐樋渡端美で、大量の紙資料を台車に乗せて会議室へ運び込んだところだった。
「わからないの」
　卓上にマイクを並べながら千紗は端美に向かって肩をすくめた。
「だって、あんなのあったらじゃまでしょ？」
　端美にそう言われて千紗はこくりと頷いた。どこの部署が置いていったのかは知らないが、こういうことをされると結局、最後に対応するのは千紗たち管理部のメンバーなのだ。
「どうします、あれ」
　アルコールを机に吹き付けていた先輩の伊福に声をかける。
「とりあえず、役員会が始まるまでには部屋から出しておかなきゃダメだろうな」
　伊福はすたすたと金属箱に近づいていく。
　ゴン、ゴン。
　拳で軽く表面を叩くとガランガランとした金属的な音が会議室の中に響いた。
「おいおい伊福、叩くなああ」
　素っ頓狂な声を上げて会議室の入り口から飛び込んできたのはリスク調査室の天豊で、慌てて箱に駆け寄ると、伊福を止めにかかった。
「やめろよ。壊れるだろ」
「何なんだよ、これ？」
「空気清浄機だよ。最新型の」
　天豊は得意げに巨大な金属箱を掌でそっと撫でる。
「いくらなんでも大きすぎませんか？」
　机に紙資料を並べながら端美が聞いた。
「あのな、汐樋渡さん。今はウイルスだの何だのでたいへんだろ。これは水素なんとかだの、なんとかクラスターだの、とにかくそういう機能が満載なんだ」
「でも、かわいくないです。ねー」
「ねー」
　千紗も口調を合わせる。
「空気清浄機ってのは、別にかわいくなくていいんだよ。リスクマネジメントが重要なんだから」
「もっと小さくてもいいじゃないですか」
「わかってないな。空気を完璧にきれいにするには、この大きさが必要なんだよ」
　天豊が二人を小馬鹿にした口調で言うものだから、端美と千紗は呆れたように冷ややかな視線をそっと交わした。
「おい、何やってんだ。準備は終わったのか？」
　秘書室の飯尾が会議室を覗き込んで手を叩いた。
「ほらほら、もうすぐ始まるぞ。急げ」
　千紗はマイクの音量を確認したあと、部屋の至る所をアルコールで消毒しながら、端美といっしょになって必要な資料を必要な部数ずつ各席に並べていく。
　伊福はプロジェクターの電源を入れて、つないだパソコンの資料がちゃんと映し出されることを確認した。
「うん、大丈夫そうだな」
　腕時計を見た飯尾はそう独り言ちてから、重役席の机と椅子がきっちり直線になるように整え直し始めた。
　もうすぐ時間だ。
　会議室の一番前から全体をゆっくりと見回した天豊は、満足そうな顔で部屋のうしろへ戻り、空気清浄機のスイッチを入れた。
　ゴンゴンゴンゴン。
　何かが回るような音が鳴り始め、やがて一定の回転数に達したのか、キーンという微かな高音に変わった。天豊の顔がニヤける。リスクマネジメントのプロとして、この会議室の空気を完璧にきれいな状態に保つつもりなのだ。
「あのう」
　ふいに総務課の丸古が部屋の中央辺りから天豊に向かって手を上げた。
「なんだ？」
「水はどうしましょうか？」
「水？」
「はい。役員のみなさんの飲み物はお水でいいですか？」
　天豊は呆れたように首を振った。
「それはもう君に任せるから。好きにしていいから」
「わかりました。じゃあペットボトルの水を用意します」
　丸古はぺこりと頭を下げ、部屋から出て行った。ほとんど入れ替わるようにして、役員たちがぞろぞろと会議室へ入ってくる。
「ええ、九十を切ったそうじゃないか」
「いやいや、あれはもうキャディーがよかったんですよ」
「あのあと、例の店に行ったかね？」
「おふくろの味のですか？　行きましたよ」
　たわいない話をしながら役員たちが席に着く。ペラペラと資料を捲る者、眠そうに目頭を押さえる者、携帯電話で何やら話し込んでいる者、うしろに控えている部下に何やら指示を出している者。いつもと同じ役員会の雰囲気である。
　しばらくして社長の砂原茂禄子が飯尾の先導で入って来た。
「本当にすみません。それでは、申しわけありませんが定例の役員会を始めます」
　広報の井塚匡がマイクを持って顔を向けると社長が軽く頷いた。