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局地的なシラス

 本宮寺で城北線に乗り換えて六つ目。楓台の駅には一つしか改札口がない。上空から見下ろせば、城北線と平行して走る二車線の県道のほかに、駅前のロータリーから南方向へまっすぐ一本の道が延びていることがわかる。道は小さな商店街を抜け、静かな住宅地を渡り、やがて緩やかな坂道を上りながら常緑樹の茂る楓手山の森へと消えていく。広い平地の中に突然そこだけ盛り上がった巨大な山は、まるでテーブルの上に茶碗をひっくり返して置いたような不自然な印象を与えている。
 森の手前にも住宅がまとまって建ち並んでいるが、どうやらこの辺りは比較的新しく建てられた戸建てが多いようで、屋根に取り付けられたソーラーパネルが傾きかけた陽光を跳ね返して目に眩しい。宅地の周囲は殆どが田畑で、それ以外の荒れ地には木の枠に張られた透明の網がずらりと並べられている。
 森のすぐそばに、カタカナのコの字をした建物があった。平たい屋根にソーラーパネルはついていない。
 視点を地上に移して見れば、実際にはコの字型の建物ではなく、二階建ての集合住宅が直角に三つ並べられたものだとわかる。三つの建物にぐるりと取り囲まれた部分はちょっとした中庭になっていて、芝生の中に植えられた大きな楓の木々が日射しを遮っていた。いちばん大きな楓のそばには赤く塗られた木製のベンチが置かれている。
 建物の建っていない側には金属製の大きな門扉があり、駅から続く一本道に面していた。門にはマイメゾン楓台と書かれた銘板が取り付けられている。私の家という安易なネーミングだが、地方の集合住宅にはこういう名前のものが多い。
 門扉をくぐって中に入ると、白い塗装が吹きつけられた建物の屋根から、重力に従って垂れている蔦が目に入る。建物の中央にある階段への入り口は緑のペンキで縁取られていて、ちょうど蔦の緑と溶け合うようだった。
 どの部屋にも中庭に面したベランダがあり、住民同士が部屋にいながら顔を合わせられるようになっている。庇にはなぜかスペインや南仏で見かけるような縞模様のテントが張られていて、これだけは、どう見てもあまり楓台には似つかわしくないものだった。
 中庭にその箱が置かれたのは五月に入ってからのことで、ちょうどゴールデンウィークが終わって、そろそろメゾンの住人たちが休み前の暮らしに戻ろうとしているタイミングだった。
 最初に箱を見つけたのは井塚有音で、連休中に溜めに溜めたビールの空き缶を早朝に共用のゴミ捨て場へ持って行く途中のことだった。
「ねえ、ちょっとこれ見てよ」
 大声に目を覚ました住人たちがそれぞれにベランダへ現れ、いったい何事かと覗き込んだところ、中庭の真ん中に大きなダンボール箱が置かれているのが目に入った。
 箱の前では妙な花柄のパジャマを着てボサボサの髪をした井塚がふくれっ面をしたまま腰に手を当てている。
 六十センチ四方ほどの薄茶色をしたダンボール箱は、駅前の商店街を歩けばいくらでも見かける一般的なもので、特に騒ぎ立てるような点は見受けられなかったし、井塚が何かと大騒ぎをするのはいつものことなので、住人の何人かは面倒くさそうにふんと鼻から息を吐いて部屋の中へ戻って行った。
「なんスかそれ」
 二階から呑気な声を出したのは古庄敏夫だった。B棟の二〇二号室に住んでいる代学生だが、その割にはずっと家にいるようで、本当に代学生なのかどうかは誰も知らなかった。
 もっとも、代学生として学校へ通うときには古庄ではなく他の誰かとして通うわけだから確認のしようもない。いずれにしても本学生がいなければ代学生の仕事はないのだし、彼が代学生かどうかを知っても意味のないことだった。
 一度、駅前の純喫茶エデンで向日葵柄のワンピースを着た可愛らしい女子学生と真剣な顔つきで話し込んでいるところをC棟二〇三号室の木寺俊貫に見られたことがあるから、やっぱり代学生なのだろうという話になったものの、はたして古庄に女子学生の代理が出来るのだろうかという疑問が住民たちの中にはまだはっきりと残っていた。
「見ればわかるでしょ。ダンボール箱」
「ああ、箱か」
 古庄はベランダの柵にもたれかかり、タバコに火を点けた。
「それ、何が入ってるんスか?」
「わかんないけど、ものすごく重いのよお」
 井塚はダンボール箱を抱えて持ち上げようとしたが、箱は地面に張り付いたようにぴくりとも動かなかった。井塚はかなり大柄で力もあるほうなのに、その彼女でもまったく動かせないということは、中には相当重いものが入っているに違いなかった。
「いや、そっちじゃなくて袋のほうっス」
「あ、これ。これは空き缶よ。これから捨てるの」
 指定日以外にゴミを出すことは禁じられているのにも関わらず、井塚は当たり前のことを聞くなという顔で、悪びれることなく堂々と言い放った。そう言ったあと、袋を思い切り足で突いたものだから、ガラガラという金属音がまだ何とか静けさを保っていた早朝の建物に激しく響き渡り、そのせいで、それまで屋根でくつろいでいたカラスが驚き飛び去って行った。 
「どうして空き缶ってこんなに溜まるのかしらねえ。何だか飲んだ量よりも空き缶のほうが多い気がするのよお」
 むろん決してそんな筈はないのだが、井塚には己を省みる気がこれっぽっちもない。そういう女なのだ。
「あとはタオルよね。タオルも気がついたらいっぱい溜まっているじゃない」
 井塚は二階の古庄に顔を向けた。
「砂原くんのところから貰ったタオル、あんたもまだ持ってるでしょ」
「いやもうないっスよ」
「あらいやだわ。あれすごくいいタオルなのよお」
 井塚は呆れたように首を振り、もう一度足元の袋を蹴った。
 ガラガラン。大きな音が再び響き渡る。
「井塚さん。少しは静寂を保つ努力をしたらどうなんだね」
 大きな声がした。
「もっと静かにしなさい」
 そう言う自分もパタパタとスリッパの音を派手に立てながら現れたのは丸古三千男で、薄い水色のパジャマを着たままダンボール箱の前に立ってしげしげと見つめたあと、
「危険物だな」
 とだけ口にして、それっきり口を閉じて首の後ろを掻き始めた。
「どうなのかしら。でも、拾ってと書いてあるわよお」
 井塚がじれったそうに丸古を見た。足元には大量の空き缶が入った袋が置かれたままだ。
 確かに透明のビニールテープでグルグル巻きにされた箱の表面には、青く太いインクで「だれかひろってください」
 と書いてあった。丸っこい書体は子供が書いた文字のようにも思える。
「とりあえず開けてみようよ。開けなきゃわからないだろう。出たとこ勝負でさ」
 そう言ったのはA棟から出てきた井間賀俊哉で、フリーランスの気象予報士をしている。大学を出たあと十年ほど民間の気象情報サービス会社に努めていたのだが、あまりにも乱暴な予報ぶりが会社の方針と合わなくなり、最近ついに退職してインターネットで気象予報の番組を始めたところ、テレビの天気予報に対するボヤキや罵詈雑言が意外にウケて、一躍人気者になっていた。気象予報士が出たとこ勝負と言うのもいい加減な話だが、そういうところがウケている理由でもある。
 楓台には季節ごとに様々なものが降るが、それはもちろん楓手山があるせいで、あの山の向う側にあるモヤモヤとしたところから様々なものが、いつもの強い風によって運ばれてくるのだった。
 もちろん湖の水を運んでくるとそれは雨になって楓台の田畑を潤すのだが、運んでくるのは水だけではないから、ここの行政は頭を悩ませるのだし、井間賀のような予報士が活躍する場も多くなる。
 だが、その井間賀を丸古は手で制した。
「もっと嘱目しなければダメだ」
 丸古はダンボール箱に近づき、太い黒フレームのメガネをかけ直した。
「ほら、下に別の文字が揮毫されているではないか」
 やたらと堅苦しい言い回しを混ぜるのが丸古の癖で、いかにも役人といった風貌と相まってそれなりの年配者に見える丸古だが、実際の年齢は不明だったし、みんなからは役人だと思われているものの、自分からそう言ったことは一度もなかった。
 丸古が消えかけた黒いインクを指でそっと示す。キケン、ゼッタイニ、サワルナ。そう読めた。
「やはり危険物だな」
 納得したように頷いた。
「えええっ。何よそれ。拾えばいいのか触っちゃだめなのか、いったいどっちなのよお」
 井塚が無駄に語尾を伸ばす。
「あたし、もう触っちゃったわよお」
「でもさ、触って大丈夫だったのなら、やっぱり青い文字のほうが正しいんじゃないの? さっさと開けちゃおうよ」
 三人が騒いでいるところへ、何人かが中庭へ出てきた。井塚の甲高い声に眠っていられなくなったのだろう。みんな眠そうな目つきをしていた。なにせ月曜の早朝なのだ。
「昨日の夜には置いてなかったわよね」
 A棟一〇二号室の青谷凪亮子はそう言って沓脱に置いてあったサンダルに足を差し入れた。一階の部屋にはベランダがない代わりに小さな庭があり、そのまま中庭へ繋がっている。
 青谷凪は職場へはメイクをばっちり決めていくタイプだが、ここの住人相手ならまるで気にもしない。すっぴんのままスタスタと箱へ近づいてくる。ところがこれが出勤時にはまるで別人のようになるのだから、人の見た目なんて信用ならないのよと街野はよく自分で言っている。
「ええ。昨日僕が帰って来たときには何もありませんでした」
 そう言う砂原早麦は蔵野の信用金庫に勤める銀行員で、多すぎる髪をいつも無理やりヘアオイルで撫でつけようとしているのだが、寝癖が酷いのか、いつも必ずどこかがアンテナのように飛び出していた。
 井塚が気に入っているというタオルは、毎年夏のボーナス時期にその信用金庫で配っているものだ。小さな箱に収められたタオルは定期預金をつくった客に配られるものだが、たいていはノルマが達成できず大量に余り、メゾンの住人たちに半ば自動的に配られていた。肌触りが良く、信用金庫の粗品にしてはなかなかの逸品で、このタオルを気に入っている住人は井塚の他にも少なからずいた。
「昨日の夜って何時ごろの話なのよお」
「十二時過ぎですね。最終バスに乗れなくて楓台の駅から歩きましたから」
 日曜の深夜まで働いていたという砂原にはワーカホリックのきらいがある。どうやらゴールデンウィーク中もほとんど休まず出勤していたようだった。
「ねえ砂原さん。それコロンビア大学のトレーナーよね?」
 青谷凪が笑った。
「ええ。何か変ですか」
 砂原のアンテナが前後に揺れた。
「変じゃないわよ」
 そう言うが、青谷凪の笑いは収まらない。
 二人のやり取りに構うことなく、丸古は指を折って数を数えはじめた。
「ということは、昨夜の午前零時からだと、ああ、今は何時だね」
「いま五時っス。そろそろ寝たいっス」
 B棟の階段を降りてきた古庄が答えた。
「じゃあ、私が見つけたのは四時半くらいね」
「つまり四時間少々の間に、何者かがここへ箱を設置したわけだ」
 丸古は腕を組んだ。
「設置って言うほどのものじゃないだろ」
 井間賀が苦笑いをする。
「それよりも、井塚さん。不燃物の指定日でもないのに空き缶を捨てるのはどうかと思うぞ」
 丸古は井塚の足元に置かれた袋を指差した。とにかく丸古はゴミ出しのルールにうるさい。事細かに監視して、やれペットボトルのラベルが剥がれ切っていないだの、プラスチックのトレーは燃やせるが、燃やすよりもスーパーへ返却したほうがよいだのと注意してくる。さすがにゴミ捨て場に出されているゴミ袋を開いて中をチェックするようなことまではしないが、心理的には似たようなものだ。
「はいはい、わかりましたよぉ」
 井塚は鼻で笑うように答える。丸古の話など聞くつもりはないらしい。
「それで、この箱は開けたほうがいいの? ダメなの? どっちなのよお」
「それはわからないが、最悪の事態を想定して今はまだ開梱しないほうがよさそうだ」
「ええ。僕もそう思います。少なくとも一度はキケンと書かれたものですし」
 砂原が金融マンらしい慎重な態度を見せた。
 拾って欲しいと書いたのは、何かの罠かも知れない。丸古が言う。
「だけどここに罠を仕掛ける意味なんてないじゃない」
 青谷凪はまだ笑っている。
「そうっスよ。だから上から拾ってって書いたんスよ。でも、なんで青いインクで書いたんスかね」
「古庄君、この場合、色はたいして関係ないと思いますよ」
 砂原が冷たい声を出した。
 十五分もすると、ぞろぞろと中庭に出てきた住人たちが半円状になってダンボール箱を取り囲み始めた。
「なになに? 爆弾だって?」
「物騒だからさっさと捨ててしまえばいいだろう」
「ちょっと待って。爆弾って可燃ゴミなの? 不燃ゴミなの?」
「そりゃあ、可燃ゴミだろ」
 みんな口々に好きなことを言い始め、だんだんと収拾がつかなくなる。
「これさ、天豊さんに言ったほうがよくね?」
 提案したのは自称モデルの渡師伊輪だ。モデルといっても雑誌や広告に写真が載るわけではない。渡師は非常階段のマークや特保のマークなど、ピクトグラムのモデルを一手に引き受ける特殊なモデルだった。
 意外に知られていないが、ああいったマークは彼のような特殊モデルがポーズを生み出している。だから万博やオリンピックが近づくと急に忙しくなるし、最近は博物館や美術館の手洗いなどに凝った表示を使うことも多く、その度に渡師は荒稼ぎをしていた。
「そうだな」何人かが渡師に同意した。
「えっ。なんだよ。誰も管理人さんに知らせていないのか」
「でしょでしょ。言ったほうがよくね?」
 確かに伝えるべきだと、住人たちはA棟一〇一号室へ向かうことにした。
 大屋の息子でこの建物の管理人をやっているのが天豊建萌だ。歳は六十過ぎだが、山登りだの海外旅行だのにしょっちゅう出かけるアクティブ派で、冬になればいっしょにスキー旅行へ行く住人もいる。
「じゃあ、あとはみんなにお任せするわね」
 青谷凪が一人だけ部屋に戻ろうする。
「そうだな。私もそろそろ出勤の支度をしなければならない。ここから先は日中にも時間のある人たちに委任するとしよう」
 丸古と砂原も互いに頷き、それぞれの部屋へ戻っていった。
「なんかさ、俺たち無職って言われてね?」
 渡師が口を尖らせる。
「しかたないっス。俺らずっと部屋にいるんだもん」
「とにかく天豊さんのとこに行くわよお。でもその前に古庄くんこれ捨ててきてよ」
 そう言って井塚は空き缶の入ったポリ袋を古庄に押しつけた。
「天豊さん」
 玄関に回って声を掛けたのは古庄、井塚、渡師、そして可児だった。
 部屋の中からは何の反応もなく四人は顔を見合わせる。とりあえずと、ひとりで頷きドアノブに手をかけたのは可児だ。マニアの間ではそれなりに知られているミュージシャンらしいのだが、長く伸びた髪と無精髭がとにかくむさくるしい。
「あれ? 鍵、開いてね?」
「ああ、開いてるな」
 怪訝な顔つきになるとむさくるしさが増す。静かにノブを回してドアを引くと拍子抜けするほどあっさりとドアは開いた。
 恐る恐る中を覗き込み、四人は再び声を掛ける。
「天豊さん」
「管理人さん」
 部屋の中は静まり返っていた。
「返事がないっス」
「天豊さん、あがりますよ」
 奥まで届くように大きな声を出し、可児は玄関から部屋の中へ足を進めようとする。
「ちょっと靴脱ぎなさいよお」井塚が非難めいた高い声を上げた。
「ああ、そっか。普段の癖でね」
「あんたまさか部屋でも脱がないの?」
 可児は黙ったまま井塚を面倒くさそうにジロリと見たあと、ゆっくりとスニーカーを脱いだ。おそらく元は紺色だったスニーカーはすっかり汚れて灰色になっている。
「そんなんだから奥さんに逃げられるのよお」
 古庄がそうだとばかりに大きく頷いた。可児は二度離婚している。二度目に離婚したときは本当の修羅場で、ここの住人全員が巻き込まれる大騒動になったのだった。
 ガシャン。何かが落ちる音が聞こえた。
「今の音は?」
「天豊さん? 天豊さんいるの?」
 渡師が玄関からすぐの和室に顔を突っ込んだ。どんな動作をしても、ピクトグラムのように見えるのはさすがだった。
「いる? いない? どっち?」
 いなければ返事のしようもないのだが、渡師はそのあたりの辻褄を気にしないらしい。
 誰もがしばらく耳を澄ましたが、スズメの鳴く音と遠くを走るバスのエンジン音くらいしか聞こえない。
「あ、あそこ」
 ふいに古庄が声を上げて廊下の奥にあるキッチンを指差した。
 全員が視線を向ける。
 白い生き物がキッチンの床にちょこんと座っていた。両方の前脚と尻を床につけている姿は正座をしているようにも見える。そのすぐ横には割れた花瓶が散らばっていた。グニャリと歪んだ時計の絵が描かれた花瓶は、いくつかの断片になって床に落ちている。
「あれ何よ?」
「あれはフェレットだ」可児がすんなりと答える。
「そうじゃなくて、なんでフェレットがいるのよお」
 可児が足音を潜めてそっと近づくが、フェレットは逃げるような素振りも見せず、もの珍しそうにただ可児を見上げていた。可児もじっとフェレットを見つめ返す。
 その横をフラフラとすり抜けてキッチンに入った渡師がひょいと両手を伸ばし、横から挟み込むようにフェレットの身体を掴んだ。そのまま抱き上げる。
「お前、かわいくね? どっから来たんだ?」
 フェレットは渡師の腕の中でキュウと小さく鳴いた。
「おお、返事をしたな」
「それって別に返事じゃないっスよ」
「ねえ、天豊さんってさぁ、フェレット飼ってたっけ?」
「ここペット禁止っしょ? まあ管理人は独自ルールなんか知らねえけど」
 渡師がニヤリとした。
「じゃあ、あんた野良ちゃんなのねぇ。それにしては丸々としているわねぇ」
 井塚が優しく頭を撫でると、フェレットは気持ち良さそうに目を閉じた。
「どうなんだ。天豊さんは不在なのかね?」
 玄関からそう声をかけてきたのはスーツに着替えた丸古だ。
「あ、忘れてた」
 慌てて古庄が寝室を覗き込んだ。
「いないっスね」
「代わりにフェレットがいたよ」
 丸古へ顔を向けた可児が、渡師の腕の中を指差した。
「代わりに?」
 遠めにフェレットを見る丸古の目が細くなった。
「いいかね。フェレットは管理人の代わりにはならない。私たちにはフェレットではなく管理人さんが必要なのだよ」
 丸古は呆れ顔で首を振り、腕を組んだ。
「部屋の鍵、開いてたんスよ」
「だけど出かけたわけでもなさそうなのよねぇ、ほら」
 食卓には置かれた湯飲みには、まだ茶が半分ほど残っていた。井塚はそっと手を伸ばして湯飲みを持ち上げた。いきなり飲む。
「ああ、まだ暖かいわよぉ」
「ちょ。何で勝手に飲んでるんスか」
「確かめただけよ」
「うおわっ」
 それまで静かに抱かれていたフェレットが急に渡師の腕から飛び降り、ゆっくりと壁際まで進んでから背を反らせるようにして大きく伸びをした。尾はピンと立っている。そのまま壁に前脚を掛けた。
 ガッガッガッ。
「あっ」
「こら」
 突然壁で爪を研ぎ始めたのを見て、可児と古庄は慌ててフェレットに近づいた。驚いたようにフェレットが動きを止める。
「そこで爪を研ぐのは、ダメじゃね?」
 渡師の言うことがわかったのか、フェレットは不満そうに壁から離れると、可児を見上げて何かを訴えるようにヒュウと息を吐いた。
「そう、人間はすぐに怒るんだ。いちいち難しい生き物なんだよ」
 そう言って可児はフェレットを抱き上げる。
「あんた何言ってんのよぉ。ほら、こんなに傷ついちゃってるじゃないの」
 壁には一筋の長い傷がついていた。よほど強く爪を立てたのだろう。傷はかなり深かった。
「壁は傷むものだよ。張り替えればすむだけのことだ。なあ」
 フェレットに言う。
「雑なこと言うわねぇ。だから二度も奥さんに逃げられるのよぉ」
 可児にキッと睨まれた井塚は肩を竦めた。どうやら単にそれが言いたかっただけらしい。
「それにしてもフェレットって爪研ぐんスね」
「ああ。俺も知らなかった」
 可児は抱きかかえたフェレットに頬ずりをする。
「で、庭の箱はどうすんの?」
 渡師が思い出したように聞いた。
「フェレットは代理にはならないから、天豊さんが戻るまではそのままにするよりほかないだろう」丸古が全員に聞こえるよう大きな声を出す。
 丸古の言うとおりだ。せめて中身くらいは確認したいところだが、あの状態ではうかつに触れない。
「おーい、みんな、ちょっと来てくれ」
 表から野太い声が聞こえた。井間賀の声だった。
「どうしたのお」井塚が大声を返す。
「たいへんなことが起きたんだ」
 天豊の部屋から中庭を覗き込んだ四人は目を丸くした。玄関から表に出た丸古もその場で足を止める。
 門扉の前からC棟にかけての中庭に、地割れのような亀裂が出来ていた。長さは十メートルほど、幅は広いところで一メートル近くもある。
 住人たちは困った顔つきで亀裂の前に並び、例のダンボール箱を見つめていた。箱はちょうど亀裂の中心にあって、深い割れ目の中へ落ちかけたところで何かに引っかかったようにして止まっている。
「わ、わ、わ。いつ出来たんすか、それ」
 古庄が中庭に面したサッシをガラリと開けた。
「わからないのよ」
 メイクを終えて別人になった青谷凪が首を振る。
「地震なんてなくね?」
「ああ。俺も気づかなかった」
「俺たちもだよ。管理人さんの部屋から妙な生き物の声が聞こえてきてさ」
 井間賀は首を傾げている。
「そうそう。で、ふっとそっちを見て、目を戻したら出来てたんだよね」
 住人たちは誰も地面が割れるところを見ていなかった。それどころか音すら聞いていないという。
「いやあ、びっくりしたよ」
 声は上ずっているものの、なぜか井間賀は笑っていた。自称気象予報士としては、格好のネタが入ったと思っているのかも知れない。
「うむ。おそらくこれは超常現象だな」
 丸古が頷いた。
 それはそうだろう。誰にも気づかれないうちにこれほどの地割れが出来たのなら、超常現象に決まっている。何かを言っているようで実は何も言っていない。これこそ役人ならではの言い回しだ。
 だが、音もなく揺れもなくこんなことが起きるのか。
「あ、おい、ちょっと待て」
 可児の腕からするりと抜け出したフェレットが中庭に降りた。そのまま亀裂に向かって走り始める。
「ああ、ダメよぉ」
「ダメです」
 砂原と井塚が同時に声を上げた。
 フェレットは勢いをつけたまま亀裂の手前で軽くジャンプし、ダンボール箱に飛び乗った。バフという鈍い音を立ててダンボールの上面が軽く凹む。フェレットがくるりと振り返った。キュウウウ。高い声でひと鳴きする。カタン。箱が揺れた。フェレットが乗った勢いで、それまで引っかかっていた部分が外れたのだ。
 住人たちが声を上げる間もなく、フェレットは箱と一緒に亀裂の奥底へと落ちていく。
 まさか爆発。
 全員が思わず首を竦めた。だが、しばらく経っても何も起こらなかった。最初に恐る恐る亀裂へ近づいたのは渡師だった。そっと中を覗き込む。
「ぜんぜん何も見えなくね?」
「はたしてどこまでの深度があるのかね」
 丸古が言う。
「ねえ、あの生き物、どこから来たのよ?」
「管理人さんの家にいたから、管理人さんの代わりっスね」
 古庄のいい加減な返事に青谷凪は眉をひそめた。
 いずれにしても、危険物らしきものが目の前から消えたことで住人たちはホッとしたようだった。だが亀裂が消えたわけではないし、天豊が見つかったわけでもない。
 住人たちはこれからどうするべきなのか。
「えーっと、それじゃ、僕はそろそろ会社に行きます」
 砂原が言った。
「砂原くんは、こんな状態のままで平気なのか」
 可児が訊く。
「はい。とりあえず僕にできることは無さそうですから」
 砂原にとっては目の前で起きている奇妙なできごとよりも会社のほうが大事なのだ。
「たしかにその通りだ」
 丸古も頷く。
「もしも何かあったら相互に連絡を回すとしよう」
 何人かが同意するような声を出し、住人たちはそれぞれの部屋に向かってぞろぞろと歩き始める。あとに残ったのは数名だけだ。渡師と古庄は顔を見合わせた。
「やっぱり俺たちなんスかね」
「でしょ?」
 ボトッ。ふいに何かが頭に当たったらしく古庄が空を見上げた。シラスだった。
「あ、降ってきたわぁ」
 井塚が嬉しそうな声を出す。
 楓台のあちらこちらで見かける網はシラスを天日干しするためのもので、毎年ちょうど五月から六月にかけて、楓手山を越えてくる海風がこの当たりにシラスを降らせていた。
「これ、一日中降るのかな」
 どこから用意したのか素早く傘を差した可児が訊いた。
「うーん、午後には少し弱まるけど、夜まで降るね。一〇〇%だよ」
 井間賀の予報はいつも〇%か一〇〇%なのだ。
「あいつらは気持ちが弱いんだよ」
 テレビの天気予報を見るたびに井間賀は毒づいていた。
「確率が一〇%だとか二〇%だなんて、所詮アリバイ作りでしかないのさ。万が一のクレームに怯えて、あいつらは日和った予報ばかりしやがるんだよ。自信があるのなら、潔く〇%か一〇〇%だ。それが俺の予報だ。俺の道だ」
 自称気象予報士のそんな毒舌がネットでは受けているのだ。
「今日のシラスは四十ミリだ。まちがいない。かなり溜まるよ」
 井間賀はニヤリと笑う。
  
 ズサッ。可児の傘に溜まったシラスが塊になって地面に落ちた。
 降り注ぐシラスは中庭にできた亀裂の中にもどんどん入っていくが、いつまで経っても溢れるような気配はなかった。いったいどのくらいの深さなのか、まるで見当もつかない。
 古庄たちがしばらくその場に立っていると、出かけたはずの住人がぞろぞろと門扉を潜って戻ってきた。
「あれ、どうしたんスか」
「ぜんぜんバスが来ないのよ」
 青谷凪が顔をしかめた。
 十分に一本は来る筈のバスがいつまで経っても来ないらしい。楓台駅までは歩いても三十分ほどなのだから歩けなくはないが、これだけ激しくシラスが降っていると足元が滑りやすくなるし、何よりも靴が魚臭くなってしまう。
「こうなったら、市長に訴えてやらねば腹の虫が収まらないな」
 C棟二〇三号の木寺が言った。
「市バスなんだから市長が責任者だ」
「いやあ、市長よりも木津屋の横にある出張所にいる若い役人たちをギリギリと締め上げたほうがいいですよ。あの人たち、いつも指先でペンをクルクルと回しているだけですから」
 砂原が言う。
「そう責めるな。それが彼らの仕事なのだから。クルクルと回さなければ手に持ったペンが無駄になるだろう」
 丸古は出張所の若い役人たちを擁護した。
「だってバスが来ないんですよ。大問題じゃないですか」
「いや、我々の問題は管理人がいないことだ。管理人は管理をする。管理人がいない今、いったい誰が管理をするのか」
 丸古はもっともなことを言った。いつも丸古はもっともなことを言う。
 来ないのはバスだけではなかった。毎朝二百CC入りの瓶をそれぞれの部屋の前に届けてくれる牛乳配達も、そしてこの状況を知らせてくれるはずの新聞もまだ届いていない。
「いったい、どうなってるんだ?」
 ボトッ、ボトッ。
 いっこうにシラスの弱まる気配は見られかった。
 ふいに青谷凪がふっと顔を上げて建物の向こう側に目をやった。
「ねえ、井間賀さん。あっちは晴れてるみたいだけど」
 どうやら曇っているのはこのメゾンのあたりだけで、通りを挟んだ向こう側には燦々と陽が差している。
「ああ、これは局地的なシラスってヤツでね、単独の小さな積魚群が急激に発達すると起こる現象なんだよ。だから言ったろ。〇%か一〇〇%だって」
 井間賀が得意げに解説をするのを聞いて、住人たちはゆっくりと空を見上げた。
 頭上に広がる黒い雲からはどんどんシラスが落ちてくるが、メゾンから一歩離れた周辺には何も降っていないようだった。まるでこの建物だけが違う世界にあるようで、何とも不思議な感じがした。

「はいはいはい、みなさん、そのまま動かないでください」
 突然、門扉から大きな声が聞こえた。住人たちが一斉に振り返ると、鼠色のつなぎ服を着た男性がニコニコ笑いながらこちらへ向かってくるところだった。
「どなたですか?」
 木寺と青谷凪が怪訝な顔になる。
「あ、私はガス会社の者です。点検に伺いました」
 男は胸にぶら下げた社員証を誇らしげに高々と掲げたあと、上着のポケットから名刺入れを取りだし、住民たちに配り始めた。名刺には地元のガス会社の社名が記されている。
「亀裂課?」
「ええ。地面に亀裂が入ったらガス漏れの確認をしなきゃダメですから」
「なるほど。それは一理あるな」
 丸古が納得したように頷いた。
 名刺を配り終えたガス会社の男はつかつかと亀裂に近づいて中を覗き込んだ。
「おや、おやおやおや」
「どうしたんですか?」
「なかなか深い亀裂ですなあ」
「そうなのよ。底が見えないのよぉ」
「割水を撒いたでしょう?」
「え?」
「そりゃ、割水を撒いたまま止めなかったらこうなりますよ」
「割水って何よ?」
「ちょっと待って。止めなかったらってどういうことです?」
 井間賀が井塚の質問を遮った。
「ええ。どうします? 止めますか? 埋めてもいいですけど」
 淡々とそう答えるガス男に住民たちは戸惑いを隠せない。
「これって、止められるんスか?」
「マジで? 地面の亀裂だよ。止めらんなくね?」
 古庄と渡師が驚いた声を上げた。
「あのう、それよりもガス漏れはどうなんでしょうか?」
 砂原がおずおずと尋ねると、ほかの住民たちも急に思い出したようにガス男に顔を向けた。男は鼻の前で手をひらひらさせ、大きく息をすった。
「特に臭いませんね。大丈夫でしょう」
「待ってくれ。あんたガス会社の人間だろ? 器具を使ったりしないのか。臭いだけで確かめるのか?」可児が険しい顔つきになる。
「私はガス会社の人間ですからね。ガスの臭いには敏感だし、そういう訓練も受けているのですよ」
「それでガス漏れは検知されなかったのだね?」
「ええ。大丈夫です」
 ガス会社の男は肩に積もったシラスをパラパラと手で払い落とした。
「それじゃ、これで」
「ちょっと待ってよぉ。あなた、これを止めるって言ったじゃないの」
 井塚が男の前に立って道を塞いだ。
「あ、そうでした、そうでした」
「亀裂を埋められるんですよね?」
 砂原が聞く。
「まあ、私がやっても構いませんが、みなさんでもできますよ」
「マジ? 俺たちで?」
「ええ、簡単ですよ」
 
 井間賀の予報通り、相変わらずシラスは降り続け、中庭にもずいぶんと溜まってきた。人の通らない花壇のあたりなどでは三十センチほどの層になって、ずいぶんと魚臭い。
「ほら、できたわよぉ」
 炊飯器を持って井塚が中庭へ戻ってきた。
「五合も炊くなんて久しぶりよねぇ」
「本当にこれでいいんスかね」
「そんなの私にわかるわけないでしょ。はい」
 そう言って井塚は炊きたてのご飯で一杯になった炊飯器を古庄に渡した。
「え? 俺?」
「そう。古庄君が適任だろう。無職だから何かあってもリスクが小さい」
「ちょっと待って。俺、無職じゃないスよ」
「代学生なんてのは無職と同じことだ」
 丸古がにべも無く言い切る。
「何かあったら俺たちが骨を拾ってやる」
「そうそう。だから安心していいわよ」
「ひどいスよ」
 古庄は炊飯器を持ったまま亀裂に近づき、底を覗き込んだ。ぶるっと身を震わせる。
「すげぇ深いスね」
「いいから早く入れろ」
 可児が額のしわを動かして、しかめ面をつくる。
 古庄は炊飯器の蓋を開けると、しゃもじを使って中のご飯をすくいとり、次々に亀裂の中へ落とした。五合のご飯をぜんぶ落とし終えてみんなのいるところへ戻ってくる。
「ほらな、なんともなかっただろ」
 可児がニヤリと笑った。


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