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影踏み

 ルールはいたって簡単だった。影を踏まれた人が次のオニになる。それだけだ。だからみんなモロコに影を踏まれないよう一斉に逃げ始めたのに、サバクだけは広場の真ん中でじっと動かずに立っていた。
「なんで止まってるの?」
 怪訝な顔をしてモロコはゆっくりサバクに近づいたが、それでもサバクは逃げようとしなかった。にこりと笑ってモロコを見る。
 これじゃつまらないよとモロコは思った。
 夕方になれば影は予想以上に長く伸びるし、逃げる方向を間違えると、人はその場から上手く離れられても影の向きは変わらず、すぐに踏まれてしまう。逃げる子を追いかけながら、影の伸びる方向を見定めて先回りするのが影踏みのおもしろさなのだ。
 女子の中で一番背が高く走るのも速いモロコにとって、小柄で足の遅いサバクなどもともと相手にならないが、それでも逃げてくれないと追いかける楽しみがなくなってしまう。
 つまらないとは思ったものの、だからといって影を踏まずにいる必要もない。モロコは淡々とした動作で足元まで伸びているサバクの影を踏んだ。
 サッ。影が素早く数十センチほど動き、モロコの足は夕陽の落ちる明るい地面を踏んだ。フワッと砂埃があがる。
「え?」思わず顔を上げてサバクを見た。
 サバクはさっきと同じ場所でモロコに向かって笑っている。
「えい」もう一度影を踏んだ。
 またしても影が動いてモロコの足を避ける。
「何? 何なの?」
 モロコの目が大きく見開かれた。
 サバクはその場から一歩も動いていないのに、なぜか影だけが素早く動くのだ。
「あんたの影、おかしいでしょ!」
 モロコが怒ったような声を上げたのも無理はなかった。これでは影踏みにならない。
「どうしたの?」
 逃げていた子供たちが集まってきた。
「サバクの影がおかしいの」
「何が?」
「あの子はぜんぜん動かないのに影だけ動くんだもん」
「ええっ?」
「なにそれ?」
 子供たちは一斉にサバクを見たあと、サバクの影に目をやった。
 長く引き延ばされたサバクの影は、ほかの影とほんの少しだけ伸びる方向が違っている。さらにじっとその影を見ていると、ときどきサッカーのフェイントのように左右へ素早く動くのがわかった。
「本当だ!」
「お前の影、おかしいだろ」
 何人かの子供が口を尖らせ、何人かの子供が影を指差した。
「それ、どうやってんだ?」
「オレ、影を動かせるから」
 サバクは恥ずかしそうに小声で言う。イタズラがバレたときのような表情だった。
「じゃあ動かしてみろよ」
 誰かがそう言った瞬間、影はサバクを中心にぐるりと回って同じ場所に戻り、両手を高く伸ばした。
「すげぇ」
「マジかよ」
 子供たちは口々に叫んだ。
「足はずっとくっついてるの? 離せないの?」
 聞いたのはモロコだ。
「わかんない。やったことないから」
 そう言ってサバクは両手をポケットに入れたが、影の手は高く伸ばされたままだった。
「だったらやってみろよ」
「そうだよ。見せろよ」
「うん」
 サバクはすっと頭を下げて自分の足元を見た。そのままじっと影を見つめる。眉間に皺が寄った。呼吸が荒くなる。
 やがてサバクの足からすうっと影が離れた。離れた影がゆっくりと歩き始める。
「うわああ、ヤベぇ」
「こいつキモいよ」
 再び子供たちは口々に大声を上げたが、さっきとは違って今度は明らかに気味悪がっている口調だった。
 離れた影はしばらくサバクの足元近くをうろうろと歩き回っていたが、いちど静かに動きを止めたあと、弾かれたようにいきなり広場の入り口へ向かって走り出した。
「あああっ」
 サバクが悲鳴を上げる。
「どうしたの?」
「止められないんだ」
 サバクはそう叫ぶと影を追って走り出した。子供たちも一斉にそのあとを追い始める。
 広場を出て大通りに入っても影には追いつけなかった。サバクと影はまったく同じ速さで走っていた。サバクがスピードを上げると影も同じようにスピードを上げた。
「待って」
 サバクは泣きながら影を追いかけるが、どうしても追いつけない。影はときどき急にスピードを落とし、サバクたちが近づくのを待ってから再びスピードを上げた。まるで子供たちに追われるのを楽しんでいるようだった。
 やがて影は大通りから横町へ入り、再び広場へ向かう小径に飛び込んだ。黒い頭が回転して追いかけてくる子供たちを振り返る。
 突然、何かに引っかかったように影の動きがぴたりと止まった。
「はい、アウト」
 影を踏んだのはモロコだった。いつのまにか影の走る方向に回り込んでいたのだ。影を追いかけてきた子供たちが息を切らしながらモロコの周りに集まった。みんな苦しそうに背中で息をしている。
 しばらく膝に手を当てて呼吸を整えていたサバクがやがてゆっくりと頭を上げた。顔が涙と鼻水ですっかりベトベトに濡れている。
「先回りして捕まえるのがおもしろいんだよね」
 みんなを見回しながらモロコは得意そうに影を指差した。
「はい。踏んだからこんどはサバクがオニね」
「でも」
 サバクはシャツの袖でゴシゴシと顔を拭いた。
「たぶんその影、もうオレの影じゃないから」
「え?」
「だってほら」
 指を差されてモロコは自分の足元を見た。赤いスニーカーの裏から二つの影が長く伸びている。もともとのモロコの影と、違う方向へ伸びているもう一つの影。
 目を丸くしてモロコはサバクの足元に目をやった。影はない。
「私、二つ影があるの?」
「うん。そうみたい」
「で、あんたには影がないの?」
 サバクは何も答えず下唇をキュッと曲げた。
「だってそんなのおかしいでしょ!」
 モロコは口を尖らせた。
「サバク、ずるいよ」

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