選手が見る風景を僕は。

 応援している選手やチームが得点を入れると、あるいは勝利すると、僕はまるで自分が点を入れたり勝ったりしたように感じる瞬間があって、別に僕自身が体を動かして戦っているわけでもないのにそんなふうに思うのは、たぶん僕が選手とどこか一体化しているからなのだろう。

 どうやら客席に座ったまま、僕の心の一部は選手の中に入り込んでその内側から見える世界を想像し、勝手に嬉しくなったり悔しくなったりしているようだ。自分の意思とは関係なく声が出て、思わず腰が浮き上がる。ギリギリの攻防が続けばアドレナリンが全身を駆け巡り、体に力が入り、鼓動が早くなる。ある瞬間、僕はまちがいなく選手と一緒にプレイしている。そのプレイを体感している。

 もちろん実際には、彼らのようなスピートで走ることも、高く飛ぶことも、遠くへ投げることも僕にはできない。それでも選手と一体化した僕は彼らと同じところに立って同じ風景を見ているし、まるで自分がそのプレイをやっているかのように感じている。

 スポーツは残酷だ。僅かな運の差で何年もかけて積み重ねてきたものはあっという間に崩れ去ってしまうし、勝利を手にしたとしてもその栄光は瞬間的なものでしかない。どれほど強く偉大な選手であっても永久に勝ち続けることはできず、いずれは勝利を手放すことになる。

 それはどこか僕たちの人生に似ている。たいていの人生は思い通りにいかないことばかりだし、ほとんどの挑戦は失敗に終わる。たとえ上手くいっても長くは続かないとわかっているから、つい途中で諦めそうになる。
 けれども選手は諦めない。たった一瞬のために全力を尽くし、孤独な営みを続けている。
 選手と一体化するとき、僕は自分がとっくに投げ出してしまったもう一人の自分を彼らの中に見ているのかもしれない。どこまでも諦めずに戦い続けた自分の姿、すべてが上手くいった自分の姿を重ねているのかもしれない。

 ゆっくりと動き始めた電車の車窓から、向こう側のホームに立っている友人に軽く手を振ったら、しだいに小さくなっていく友人が僕に向かって手を振り返してくれた。このとき遠ざかっていくのは友人なのか、それとも僕なのか。ふと、そんなことが頭に浮かぶ。
 僕から見れば遠ざかるのは友人なのに、彼から見ればもちろん僕が遠ざかっているわけだし、ちょっとややこしいけれども、お互いが同時に遠ざかっているのだと考えることだってできる。うろ覚えの物理学を持ち出すまでもなく、たいていのものごとは、どちらか一方だけが相手に力を与えることはなくて、与える側もまた、同じだけの力を与えられている。

 応援も同じようなものじゃないだろうかと僕は考える。

 選手たちを応援するとき、僕はただ応援するだけではなく、たぶん同じだけの力で応援されている。彼らを通して自分自身に応援されている。だから僕はスポーツから力をもらうのだ。当たり前の話だけれども、応援には相手が必要で、自分一人で応援することはできない。受け止めてくれる相手がいなければ、僕の応援は空回りしてしまう。

 もう三十年以上も前の話になる。僕の通っていた高校では、冬になると体育の授業の一環として裏山を縦走する学年別のマラソン大会が開かれていた。走り始めるのは一年生の女子からで、僕たち三年生の男子は最後にスタートする。
 ラグビー部に所属していて長距離走がわりと得意だった僕は、今年こそは陸上部の連中に勝つのだと、つまり、かなり本気で走っていた。スタートの混雑に巻き込まれてちょっと出遅れてしまったものの、それでも途中でなんとかペースを立て直した僕は、高低差のある山道を延々と何キロも駆けながらどんどん他の生徒を追い抜き、いよいよゴールへ向かう最後の登り坂に差し掛かった。見上げる坂の先にゴールはある。このまま行けば一〇位以内は確実だ。
 道の両側には先に走り終えた生徒たちがずらりと並んで、三年生男子の走りを眺めていた。目の前に見えているのはまさに陸上部員の背中で、僕は横腹の痛みに耐えつつ、どうにか追いつこうと必死で腕を振っていた。もう少しで追いつける。追い越せる。腕の振りに合わせて息を二回吸って二回吐く。足が地面を蹴る瞬間を強く意識する。

 突然、両側の沿道にいる生徒たちから「がんばれー」「がんばってー」という声が次々に上がり始めた。
 その声が耳に入ったとたん、それまでずっと保ち続けていた緊張感や闘争心が、なぜか突然僕の中から消えた。僕は走るのを止め、ゆっくりと歩き始めた。どうしてもそれ以上走る気になれなかった。後ろから来る生徒に抜かれることも気にせず、僕はそのままゴールまで坂道を歩いて登った。僕に向けられていた「がんばれ」は、いつしか止んでいた。
 ゴール地点で先生から「どうして最後までちゃんと走らなかったんだ」と叱られたのだけれども、自分でもどうしてなのかはわからなかった。
 いや、なんとなくはわかっていた。僕は、あの「がんばれー」「がんばってー」がどうにも腹立たしかったのだ。
 僕はもう充分にがんばっているのに、なぜ他人からがんばれと言われなければならないのか。僕はお前たちのために走っているわけじゃない。自分のために走っているのだ。それなのに、その声を受けたまま走り続ければ、まるで彼らのために走るみたいじゃないか。そんなのはいやだ。

「がんばれ」と言われてがんばる気がなくなってしまうのは、もちろん僕の天邪鬼で面倒くさい性格が災いしたからに他ならないのだけれども、とにかく僕は誰かに言われて走りたくはなかった。自分だけの意思で走りたかった。他人が僕に自分の願望を重ねてくるのがたまらなく嫌だった。だから僕は、走るのをやめて歩き出したのだった。結局、何位だったのかも覚えていない。

 応援という言葉を聞くとあの日のことを思い出して僕はなんとなく苦い気分になる。応援する者と応援される者の両方に力がなければ応援は成立しない。あの日、せっかくの応援を受け止めるだけの力が僕にはなかったのだ。
 受け止めきれない応援は、ときにはブレーキになるのだとあの苦い体験から知った僕は、だから、ただ選手に声をかけるのではなく、彼らの中にいる自分自身を探すのかもしれない。想像の中で、選手とともにプレイをしようとするのかもしれない。

 もちろん普通に考えれば、選手に「がんばれ」と声をかけることはまちがいなく応援だし、そのチームに勝って欲しいと願うことだって充分に応援だろうとは思う。
 けれども、相手と同じ場所に立とうとすること、彼らの中から見える風景を想像し、同じ景色を見ようとすること。自分の望みを託すのではなく、相手の望みを叶えたいと願うこと。それが本当の応援なのではないだろうかという気がしているのだ。
 選手を応援するとき僕は彼らの中にいる。彼らの望みと僕の望みが同じ方向を向いたとき、僕の応援は彼らと共にいる自分への応援に変わっていく。

 僕は応援することで応援され、応援されることで応援している。

 そして、それはスポーツに限らない。どんなときにだって、応援する者と応援される者の見る風景が一致すれば、僕たちは共に目指すべき大きな夢を手に入れることができるに違いない。
 思わず口に出る「がんばれ」は、きっと僕たち自身に向けられる言葉なのだ。だから、がんばれ。みんな、がんばれ。


この文章は、ASICSスポーツ応援プロジェクトがnoteで開催する「#応援したいスポーツ」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

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コメント (3)
運動をするのも、スポーツ観戦も大好きな僕が、おそらく日々感じているだろう感情を、ここまで鮮やかに表してくださるとは、感動しながら読みました。素晴らしい文章でした。
凄まじく感服いたしました。ありがとうございました。
思わず口に出る「がんばれ」は、きっと僕たち自身に向けられる言葉なのだ
胸に刺さる、新しい価値観でした。普段私はスポーツ観戦などをしないため、大変勉強になりました。ありがとうございます!
長文ありがとうございます。

がんばれ、がイラッとする、ていうプロスポーツ選手の声、聞いたことあります。
マラソンは沿道の方の声援が励みになる、という声も聞いた事あるので、東京オリンピックのマラソンは、ぜひ沿道で応援したいです。
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