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好きな映画レビュー第4回目『桐島、部活やめるってよ』

何かと「〇〇、〇〇するってよ」という言葉遊びで使われがちなこのタイトルのこの映画。

実はわたくし個人的には1番か、それに近いくらい好きな映画です。

好きすぎて、自分にとって奥深いものすぎてこんなレビューとかちょっと書きにくい。思い入れがありすぎる。(でも書く)
7、8年前くらいから何回も観続けています。

最初、この誰かの口調を切り抜いただけのようなタイトルを耳にした時はえ?と思ったものだったなー。



『桐島、部活やめるってよ』


校内イチのヒーロー的存在、「桐島」が突然部活を辞めた。誰にも告げず、語ることなく・・・。このことによって「桐島」を軸に構成されていた人間関係、周囲の人間のアイデンティティ、ヒエラルキーの図式が崩れ始め、波紋が広がっていく。
図式が崩れたことで浮き彫りになってゆく自分の不安定さ、不確かさ。数々の人間が揺らぐ中、しかし、それが「まったく関係のない」者達がいるのだった。

冒頭でも言いましたが、この映画から伝わってくる感覚が強いっていうか痛すぎて、多分うまく語れません・・・。
これは多感な学生時代を生きてきた大人達、それとまさにこの渦中にいるような方々は、人によっては泣き出しちゃうんじゃないかと思う。

あのころの人間関係のあるあるがリアルに、大袈裟でなく日常的に、「それとなく」描かれている。
言ってることや普段の仲の良さが必ずしも100ではなくなってくる、それを計算で調整するようになってくるし互いに言わずともその計算で成り立つようになってくる、子どもと大人のはざま。
しかしまだ無邪気な分、図式はストレートで残酷だ。目を覆いたくなるところもいくつかある。

それぞれの登場人物の視点で起点となった「金曜日」が繰り返し描かれて、徐々に背景が見えてきて、客観的な視点でドラマが迫ってくる。
この人たちにとっての「桐島」とはなんだったのか、どういった軸になっていたのか、それが失われたことで残るものはなんなのか。

それまでうまいこと成り立っていた図式が「桐島」という絶対的な軸を失うことでボロボロと崩れ、己の本質があらわれ始めていくところがとても爽快でした。
(爽快に感じちゃうあたり、私はいわゆるスクールカーストでは地味ポジションだったことの証ですね。笑)

誰が上で誰が下、このグループにいる自分はなんとなく上、これができる自分が上、「桐島」がいなくなたことで呆気なく崩れたこれらのアイデンティティと、崩れた自分に何が残ったのか。残らなかったのか。
ここがとある人物を通してむき出しに描かれるのですが、この見事な、一気にひっくり返っちゃう感じには誰もがちょっと希望をもらえてしまうと思う。
桐島が軸だったからこそ成り立っていた自分の空虚さ。

前田や吹奏楽部の沢島、映画部の面々、一見「負け」とされてきた人物たちが自らの芸術性で、表面上“イケてる”キャラじゃない自分を昇華させていったところでは涙が出た。
ラストシーン、吹奏楽部が演奏するワーグナーの楽曲にのって、キレた映画部たちが自分を全身で表現するところは圧巻。

この前田たち映画部、沢島、わずかな望みにひたむきな野球部のキャプテン。
と、とある「元勝ち組」の人物のこの対比。
桐島という物差しがなくなった今の、この圧倒的な差。


元地味ポジションの私が語るこの映画の爽快ポイントは、

・宏樹と前田の対峙の場面、ある一言であっさりと負かしちゃう(本人気づいてない)ところ
・野球部のキャプテン、「俺、次の試合は・・」を「よかったら応援だけでも来てくれよ」であっさり突き放す(本人気づいてない)ところ

この2場面です。


いやしかし、立派な大人になってしまった(年齢だけ)今、この負かされた人を舐めていない方がよいな。
今、例えば仕事で、例えばプライベートで、持っているもので、意図せず自分が負かしてしまっている人がいたとして、
もしそのことを自覚してしまう時が来て「わたし勝ってる」と思えたとしても、気持ち良くはなっていられないな。
だって、いつその物差しがなくなるか分からないから。
誰かとの競争で勝った自分に価値がある、その価値観が崩れ去った時に、自分にちゃんと何かが残るか。

誰かと比較していないでひたむきに自分の人生を追求し、踏ん張っていきたいと改めて思わされました。



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余談。

最後に、個人的に大好きなシーン。
イラストにしました。



映画部の部員がゾンビ映画の撮影をしているという設定の場面です
この血を噴き出す彼の風貌といい、噴き出すまでの間合いといい、すべてが最高です

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