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「頑張っていない自分が許せない」あなたへ

頑張っていない自分が許せない。無駄なことができない。なにもしていない自分は「生きる価値がない」とすら思う。

そのように、私たちはいつも何かに追われている。気がつくと感情を感じるヒマすらなくなっている。苦しい辛いという感覚すら、もはやない。病的だ。



私はいま、千葉の房総半島にきている。日本についてから初めての田舎だ。今いる南房総は、内房といって海が穏やかで観光客も少なくサーファーもいない。

毎日のように海に足をつけてただぼーっとする。カニを追っかけたりトンビを眺めたりして、2時間くらいなにもしない。

そんなことをしていると田舎の海では決まってナンパしてくる男が現れる。すぐ後ろで声をかけられるまで男の気配に気づかなかったのは、リラックスしすぎて危機感が落ちている証拠だ。

ビックリした私は急激に警戒体制に入る。相手もさすがに察して、数分話すと「話しかけてすみませんでした」と丁寧に謝って去っていった。礼儀正しい、いいやつだ。



よく「ニューヨークで生きられる人間は世界のどこでも生きられる」と言われる。

その理由はいろいろあるだろうが、絶え間なく押し寄せてくる刺激や、都会の欲望の渦に負けない強い自制心が必要になるのが一つの理由だと思う。

世界一の大都会には、街中に刺激が溢れていて退屈することがない。銃やドラッグもすぐに手に入る世界で、自分を保てず刺激に飲み込まれてしまった人間はすぐに堕ちていってしまう。



そのためか、ニューヨーカーたちはとにかく公園で過ごすのが好きな人が多い。この街には予想以上に公園が多く、数分歩けばすぐに見つけることができる。

東京にもいくつか公園はあるが、数も大きさも規模が違う。中心地のマンハッタンにあるセントラルパークは南北4km、東西0.8kmという大きさを誇り、これは代々木公園の6倍以上の大きさだ。このことから、ニューヨーク市がいかに公園を重視しているかがわかる。


公園に行ってとにかく驚いたことは、そこで過ごしているのは子供達だけではなく、大人がほとんどを占めているということだった。公園といえば私たちにはなぜか「子供が遊ぶ場所」というイメージが強くある。もちろん子供たちも思いっきり遊んでいる。だけど、それに負けないくらい大人も思いっきり遊んでいるのだ。

ぼーっとしてなにもしない人たち、スケボーをしている人たち、楽器を演奏している人たち、なぜか居合をしている人たちや、ピクニックをしている人たち。

バスケットボールをしているグループなんかは、大の大人が上半身裸になってぶつかり合っている。みんな汗水垂らしながらガチでプレイをしている。

一緒にいた友人に「この人たちはみんな友達同士なの?」と聞くと、「知っている人もいるだろうけど、ほとんど知らない人たちだよ」と教えてくれた。そして、プレイしてくるといってグループの中に入っていった。日本ではありえない光景だ。


性別も人種も年齢も関係なく、何をしても何もしなくても、みんなが「ここにいていい」と思えるような場所。その空間がとても心地がよく、そこにいるだけで自分の中の何かが回復していくような不思議な感覚になってくる。

気がついたら私も毎日のように行くようになっていた。

日本に帰ってもその日課は続いている。しかし、そこに広がる光景だけはまったく違っていた。日本の公園には子連れの家族が1組いるかどうかで、午前中はだれもいない。お昼時になると現場仕事の人が1、2人休憩しにくるくらいだ。


日本にはボール遊びはしてはいけないとか、怪我をしたら危ないから遊具は撤去するとか、ベンチに長時間座るなとか、信じられないルールがあったりする。「大声を出すな」というのも見たことがある。

一体、なにをすればいいんだ・・。バカバカしすぎる。


それ以上に、今の子供たちは一体どこで遊んでいるのだろう?と思うと気持ちが沈んでくる。遊んではしゃいで泥だらけになって、成長していく貴重な場所をこの社会は子供たちからも奪っている。

なんか、またムカついてきたから話を戻そう。


私たち大人にとって、公園はまったく無意味で生産性のない場所かもしれない。会社の評価は上がらないし、友達に褒められるわけでもない。能力が上がるわけでもないし、金も入ってこない。

それなのになぜ、ニューヨーカーたちはこぞって公園に集まってくるのだろうか。


内閣府調査では、「自分に満足」という人の比率は、欧米諸国で80%台なのに対して日本では40%台になっている。『自己肯定感』の国際比較をすれば、欧米人は非常に高く、日本人はそれに比べて極めて低い。

この違いはなんなのか。私は、「なにもしなくても自分には価値がある」と思えるか否かが大きく関わっていると考えている。


よくビジネスパーソンのTwitterで、「何も出来なければ誰かの役に立て」「努力は必ず報われる。報われないのは努力が足りないからだ」とありきたりなことを言うが、こんなウンコみたいな言葉がなぜかバズってしまうのが今の社会だ。


「役に立たない自分には価値がない」と、普通に生きているだけで刷り込めれていく。

こういうことを偉そうに叫んでいるのはだいたい40代以降の男性が多いが、きっと彼ら自身が「なにもない自分」「役にたたない自分」に価値が見出せないのだろう。

自己肯定感については多くの人が勘違いをしている。「人の役に立ち、社会的に評価をされること」が自己肯定感だと思っている。この間違った自己肯定感を「随伴性自己肯定感」という。

随伴性とは、社会的評価や他人の評価に依存するということで、評価が下がれば自己肯定感も下がるため本物の自己肯定感にはならない。むしろ、まわりの評価によって上下してしまうためとても不安定なメンタルになってしまう。

※詳しくはこちらに登録すると送られてくるので聴いてみてください。(8月まで)


本物の自己肯定感とは、社会や他人がどう評価しようと自分に価値があると思えることだ。なん役に立っていなくても、なにもしていなくても、自分には価値があると自然に思えるようになることだ。


過酷な大都会で生き抜くニューヨーカーたちは、この「なにもしない」ことの重要性を知っているのではないだろうか。なんのためでもなくただ生きるために、なにもしない無駄な時間を公園に過ごしにくるのではないだろうか。



日本に住む私たちは、いつも何かに駆られている。

未来に不安を抱え、過去を後悔している。漠然とした不安が頭から離れない。その不安から逃れるために、常に何かしてなくてはいけないと焦燥感を感じている。休みの日も、仕事帰りも、心のどこかに焦りがある。


頑張っていない自分が許せない。無駄なことができない。なにもしていない自分は「生きる価値がない」とすら思う。

そのように、私たちはいつも何かに追われている。気がつくと感情を感じるヒマすらなくなっている。苦しい辛いという感覚すら、もはやない。病的だ。


あなたは、なにもしていなくても、綺麗なメイクをしていなくても、なんの役にたたなくても「ここにいてもいい」と思えているだろうか。

仕事のことも、明日のことも、さっき送ったLINEのことも考えず、心から安心できる時間を持っているだろうか。


あなたは、何もしない自分を許してやれているだろうか。何もしないことが出来るだろうか。頑張らないでいられるだろうか。なんでもない自分でも価値を感じられるだろうか。


わざわざここで「あなたには価値がある」なんて、そんな優しいことは言わない。私に求められても困る。他人に言われて安心したいと思ってしまう時点で、他人や社会に依存した随伴性と同じことになるからだ。こればかりは、自分で許せるようになるしかない。

根気強く、自分で許していくしかない。社会や他人に、絶対に決めさせるな。


自分の価値は自分で決めろ。



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