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私たちはまだ「何者」でもない

私のYouTubeは女叩きをしたがるアンチたちで溢れている。最近話題の「アンフェ」や「インセル」と言われる人たちだ。

彼らの批判コメントはどれも同じような内容で、まったく「個性」がない。まるでひとつの生物のように、同じように感じ、思考することを何かに強いられているように見える。



海外に行った女性たちは必ず「人がみんな優しくてビックリする」と言う。そして同時に、日本に戻ると「人が冷たくてビックリする」とも言う。


欧米では、重い荷物を持っていたらドアを開けてくれたり道を空けてくれるのは当たり前で、迷っていたら空港はあっちだよと聞いてもいないのに教えてくれる。切符の買い方に戸惑っているとコレを押すんだよと声をかけてくれて、バスに乗る際に重い荷物を持っていると運転手がわざわざ降りて手伝ってくれる。

そんなことが日常生活の中で普通に起こる。


肝心なのは、いずれもこちらから助けを求めたわけではなく、困っていたら誰かがすかさず助けに来てくれるということだ。彼(女)らは、つねにまわりに目を向け、手を差し出す余裕を持っている。

一方、日本人も親切で気配りが素晴らしいとはよく言われる。一人一人はとても優しく心が温かい人たちばかりだ。しかし明らかに違う点は、自分から誰かに助けを求めない限り、「誰も助けてくれない」ということ。


自ら誰かを助けようとする人は滅多におらず、困っている人がいても見向きもしない。とくに都会では、重い荷物を持っていると邪魔そうに白い目で見てくる。ドアを開けるどころか我先にとサラリーマンが押しのけてくる。ジェントルマンはどこにもいない。街を歩いているだけで、日本のジェンダーギャップ指数のランキングが下位なのが頷ける。


街は殺伐としていて人々は暗い顔をしている。電車の中でも、お店の中でも、喫煙所の中でも、コミュニケーションが起こることはなく、まるでまわりの人間が全員敵かのように恐ろしく冷たい目をしている。

一人一人は優しい人ばかりなはずなのに、なぜこんなことが起こってしまうのだろうか。


まず一つは、集団になったときに性格が変わるからではないかと思う。とくに日本の社会がそうで、空気を尊重する文化や同調圧力の働きとも言える。

そして、つぎに確固とした「個性」を持っている人が少ないのも一つの理由だろう。集団(共同体)の中で、自分を保てるほどの強い個性を持っている人はほとんどいない。自分の感情や思考よりも、共同体が感じる感情や思考に支配されてしまう。


だから、一人一人は心優しく思いやりのある人間でも、ある条件下では突如血の通っていない冷たい人間に変貌してしまう。

自分が「個性」だと思っていたものの多くが、ある共同体の中で体質的に形成されてしまった一つの「フレームワーク」にすぎない、と気がつくわけです。  
じゃあ、自分はいったいどんなフレームワークの中に閉じ込められているのか、そこからどうやって脱出できるのか、というふうに問いを立てるところから、はじめて反省的な思考の運動は始まります。「私はどんなふうに感じ、判断することを制度的に強いられているのか」、これを問うのが要するに「思考する」ということです。

『疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)』内田 樹著


内田さんがいうように、私たちは例外なくフレームワークの中にいる。

ルールや規則、決まりに厳しい日本の中で生きるためには、これを持っていないと生きていけない。文字通り「型通り」な人間になるしかない。ある意味、波風立てずにうまく生きるための「鎧」だ。


しかし、ほとんどの人がそこにはまっていることに気がついていない。

こういった人は自分がどのように感じ、なにを思考しているのかがわからなくなる。自分を見失ってしまう。そして、いつも悩みを抱えて自信が持てず、まわりの目に怯えている。フレームワークから外れないように常に気を張っているのだ。


そのため、一人一人がどれだけ優しい人間でも、ある条件下になると型通りの冷たい人間になってしまう。目の前で誰かが困っていようが、そこに気を配る余裕もなく、気になっていても声がかけられない。フレームワークから抜け出せない。

しかし、フレームワークから上手に脱出できる人もいる。


それは、「私はどんなふうに感じ、判断することを制度的に強いられているのか」、これを常に問うことができる人だ。自分は社会に包摂されている「一部」であり、そしてまた一人の「個人」である、という矛盾を同時に自覚ができる人だ。


例えば、私のYouTubeは女叩きをしたがるアンチたちで溢れている。最近話題のいわゆる「アンフェ」や「インセル」と言われる人たちだ。


見ている人ならわかると思うが、彼らの批判コメントはどれも同じような内容で、まったく「個性」がない。まるでひとつの生物のように、同じように感じ、思考することを何かに強いられているように見える。

私が「ちゃんと話を聞きたいからDMに送ってくれ」と頼んでも、誰一人として文句を送ってくることはない。本当に一人もいない。もはや彼らが感じている感情や判断は「自分」のものではないことがわかる。どんなにヒドイ言葉や脅迫のようなコメントがきても、私はそっちの方が恐ろしく感じる。


これは彼らに限った話ではなく、私も含めた誰もが例外なくフレームワークにはまっている。フレームワークで強いられた感情を感じ、フレームワークで強いられた思考をしている。


家族。学校。恋人。友達。職場。地域。社会。日本。

大半の悩みや問題というのは、このようなフレームワークから作られる。
そのフレームワークの中で同じように感じ、同じように悩むことを強いられ、問題をつねに生み出している。自分の持つフレームに気づかない限り、不安は生涯消えることなく悩み続けることになる。


その中で生きていた方が安全で楽かもしれない。今まで自分だと思っていた「個性」がただフレームワークに強いられたものだったと知った時、人によってはショックなことかもしれない。しかし逆を言えば、それは希望を見つけたということでもある。


なぜなら、あなたはまだ何者でもないということだから。
自分の知らない自分を、これから知ることができるということだから。
もっと違う自分、もっ違う人生を、生きることができるということだから。

可能性は未知数だ。


今のあなたは、本当に「あなた」だろうか?

あなたはこれまで、一度でもこんなことを考えたことはないだろうか。



「私は一体、なんなのだろう」と。


自分の感受性くらい自分で守れ
ばかものよ

『自分の感受性くらい』茨木のりこ


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