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なぜ、利己的な人は幸福度が低いのか

運が良い人、運が悪い人。幸福な人、不幸な人。世の中の人たちを見ていると、明らかに運にも幸福にも違いがある。どうしてこんなに理不尽で不平等な世の中なんだと思ったりする。だけど、私は運や幸せは平等なのかもしれないとも思う。

それは、運や幸せも「自分で生むことができるもの」だと思うからだ。

何がよくて、何を悪いとするかも人それぞれだ。好きな仕事につけたけれど給料がすごく安い。それでも運がいいと感じるか、運が悪いと感じるかも人によって違う。その感じ方によって、行動は変わり、生き方が変わる。運や幸せはその人の生き方次第で変わってくるのではないだろうか。

京都大学の藤井教授の「認知的焦点化理論」を用いた研究によると、このような結果がでている。

利己的な傾向を持つ人々のほうが
そうでない人々よりも、幸福度が低い

認知的焦点化理論とは、どれくらい遠くの他人どれくらい遠い未来まで配慮できるか、といった、『配慮範囲』を尺度として展開される理論だ。つまり、どれだけ長い時間と広い空間を配慮することができるか、ということ。

たとえば、配慮範囲が広い人というのは、自分自身の未来だけでなく家族や社会の未来まで範囲するというイメージ。一方、配慮範囲が狭い人は自分のことだけを考え目の前のことしか見えない。配慮範囲が狭ければ狭いほど利己的になり、配慮範囲が広ければ広いほど利他的であるということ。

だから結果的に、配慮範囲が広い人が幸福だというのは、良い人間関係が築けるようになり、困った時には周囲の人たちが助けてくれたりするわけだ。そのような目には見えない形となって、運というものはやってくる

では、どのようにすれば配慮範囲を広げることが出来るのか。例として、自分があるコンビニ店のスタッフだとする。目の前に初見のお客さんきて、その時自分はどのような接客をするだろうか。

配慮をするには当然お客さんを知る必要がある。ただ一スタッフと一お客さんとしての接し方というのは、なんの関係性もない、作業のような接客になってしまうからだ。だから、相手を「お客さん」としてではなく、「一人の人」として見る必要がある。配慮をするために最も重要なことは、相手を知ろうと努める姿勢だと思う。

だけど、接客となると相手を知るのに根掘り葉掘り聞いている暇もない。この人は何歳で、何の仕事をしている人で、どんな趣味を持っているか、このような情報は表面的なものでしかない。

表面的な情報は頭で考えれば誰でもわかる。目で見て、耳できき、判断できる。もちろんそこもひとつの重要なヒントにはなってくる。だけど、最も大切なものは、目で見えない、耳でも聞こえない、頭で理解のできないもの。

それは、内面だ。頭でわかるものではなく、「なんとなく感じるモノ」人の感覚値でわかるものだ。感覚の鋭さというのは人によって異なる。運を寄せる人というのは、配慮ができる人で、尚且つ、感覚が優れている人だということ。運は、頭ではなくカラダが寄せてくる。

だとすれば、私たちは普段から感覚値を磨く必要がある。耳を澄ませ、匂いを感じ、見て、味わい、触れてみる。一流の音楽をきき、一流の本を読み、一流の映画を見る。それをいつもの平凡な日常からはじめること。

では逆に、「感覚が鈍い人」は利己的な傾向にあり、幸福度が低いということになる。感覚が鈍いから利己的になり、幸福度が低いなのか。幸福度が低いから、利己的で感覚が鈍いのか、どちらかはわからない。

だけどはっきり言えることは、「感覚が鈍ければ鈍いほど、幸福度は低くなる」ということだ。なぜなら、目の前に幸福があったとしても、その人が幸福を感じることは永遠にできないのだから。




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