『バラックシップ流離譚』 アリフレイター・5
妙な気分だった。
アステラと名乗った女の顔が脳裏から離れない。
たしかに人目を惹く容姿ではあったが、美しいというだけでは説明がつかなかった。
思わず見惚れるほどの完璧な所作。
いまひとつ意図の読めない言動。
探りを入れようと踏み込んでも、慇懃に、しかしきっぱりと示された拒絶。
トブラックの社員が、ゼラーナの通う店に、鑑定を依頼しに訪れた――そこに、怪しいと言えるほどのなにかがあるわけではない。
あるとすれば、そう。
わざわざゼラーナを待っていた点だ。
隠れ蓑としてではあっても、日々真面目に励んでいた仕事ぶりが認められたと、素直に喜ぶべきところなのだろうが。
実際、それだけの働きはしていたと思う。
しかし、希望的観測を簡単に信じ込めるほど、ゼラーナの人生は安穏ではなかった。
ちりちりと、腹の底で燻るもの。
いつもなら警告と受け取るところだが、なかなかそうできずにいる。
なぜ?
まさか、アステラを敵だと断じたくないとでも?
(そんなはず、ない……私にとって都合のいい“本当の目的”なんてものがあったとして、それを伏せる理由はなに?)
ばかばかしい。
いつからそんな浮わついた人間になった、と自嘲しつつ、気づけば彼女のことを考えている。
そんな調子で具体的な手を打つこともせず、二日が過ぎたところで空気が変わった。
もはや肌になじんだ感覚。
はっきりと、危機が迫っているという実感を得るや、ゼラーナは隠れ家を後にした。
なるべく人の多い場所へ。
自分を紛れ込ませ、いざとなれば盾にできるように。
市場の喧噪。
誰も彼もがゼラーナとは関係のない言葉を投げ合っている。
消せ。溶け込め。空気となれ。
存在を認知されても、個体識別まではできぬほどに。
そうやって、雑踏をうろつく有象無象となりながら、周囲を窺った。
あちらの路地。
こちらの路地。
そして背後から、なにかが迫ってくるのが見えた。
通行人の足許をすり抜けながら、人が歩くくらいの速度で移動している。
乳白色の獣のようだが、奇妙な形状をしている。
喩えるなら、おそろしく柔軟なゴムまりに四肢を生やした感じか。
ぐにゃぐにゃと身体を変形させ、人々の通行を妨げることもない。
時折、彼らに気づいた者が「うわっ」というような声をあげるが、害はなさそうだとすぐに判断し、通りすぎていってしまう。
(あれはたしか……豚犬《グルニスキロス》……だったっけ?)
以前、仕事で出向いた金持ちの家で飼われてるのを見たことがあった。
嗅覚以外の感覚はほとんど退化してるが、一度匂いを覚えた“獲物”はどこまでも追いかけて喰い殺すのだと、家の主人は自慢げに語っていた。
囲まれる前にと、グルニスキロスのいない道に入ると、三頭とも後からついてきた。
やはり、自分を狙っているのだ。
ゼラーナは早足になった。
(どこ? どこで匂いを嗅がれた?)
周辺の地図を思い浮かべながら、目まぐるしく頭を回転させる。
大丈夫。大丈夫。
立て籠もれそうな建物、腕っぷしの強い知り合い。
対処法はいくつもある。
馬鹿正直に匂いを辿ってくるだけの猟犬など、簡単に出し抜いてみせる。
壁にあいた穴や、屋根をつたってあるける場所――そうしたショートカットを駆使しつつ、安全な場所を目指す。
(ヤな感じ……どんどん人気が少なくなってる)
舌打ちが漏れる。
群衆に紛れるという当初の思惑が外れたためか、ゼラーナの心に焦りが生じていた。
(まさか、そういう方へ追い込まれてる? でも、あのケダモノにそんな知恵なんて……)
相手は原始的な本能しかない食欲の塊だ。
だが、行動原理が単純なほうが、使役するのも容易いのかもしれない。
表情は、あくまでも平静を保っていた。
グルニスキロスを操っている者がどこかで見ているならば、無様を晒すわけにはいかない。
(ここだ……!)
次の角を曲がってすぐにある横道を抜ければ、顔なじみの酒場の前に出る。
そこの用心棒はゼラーナに気があるので、喜んで助けてくれるだろう――と、そこで駆け足気味になっていた歩みがぴたりと止まった。
埋まっていた。
身体を横にしてようやく通れるほどではあるが、数日前まではたしかに存在していた横道が。
まるで元からひとつの建物であったかのように、左右の建物に使われているものとおなじレンガによって、塞がれていたのだ。
新たな住人が住処を作る、組織間の抗争で破壊される――その他さまざまな理由で『居住区』の地図は常に変化しており、さらには謎の空間のねじれによってふたつの地点が結ばれたり、あるいはその逆が起こる、というようなことさえある。
今回は、“それ”だ。
どれほど用心深く振舞おうとも、こればかりはどうしようもない。
この場所で暮らす限り、常に起こり得る”不条理”だった。
(どうする――?)
逡巡するゼラーナの耳に、ハッハッという息づかいが聞こえた。
振り返って足許を見ると、乳白色の毛玉がいた。
最初の三頭とは、十分な距離を取れていたはず。
他にも、いたのか。
毛玉の鼻先――干しブドウのように退化した目があったので頭部だと知れた――が横に裂け、ずらりと並んだ牙と、真っ赤な舌が露わになる。
熱い吐息が、ふくらはぎにあたるのを感じた。