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コミュニケーション過剰は人類を滅ぼす?

私は小さい頃から極力他人とコミュニケーションを取りたくないと思って生きてきたので、SNSの類が大変に好きではないのだが、今ではもうTwitterやfacebook、mixi、LINEといったコミュニケーションツールが無いととても生きられないとさえ言う人もいる。

とにかく、気の合う仲間と、何時でも何処でも繋がっていたい。この話題ならこの仲間、あの話題ならあの仲間、常に自分の興味の対象と重なる仲間と繋がっていたい――こんな過密なコミュニケーション、私には到底耐えられないし、ちょっとおかしいんじゃない? と思う人も少なくないかもしれない。

今や、若者を中心に、この過密に見えて、実は、一人一人の間柄はとても「ゆるい」繋がりが、急速に広がっている。リアルな会話の中でも、こんな「ゆるさ」を感じたことは無いだろうか? 面と向かって、まるでチャットをやっているようなゆるさだ。

「友達は量より質だ」というのが今の時代だが、私のイメージしていた形とは少し違ったようだ。私がイメージしていた形は、2、3人の親友だけで絆を深めるような間柄を求めるものだったのだが、彼らの答えは、「ゆるさ」だった。興味のある分野分野で、コアな話を共有できる仲間を構築する。これが質。昔は本当に興味の合う人間に会うには、一人一人たくさんの人と繋がっていかなければなかなか出会えなかった。これが量。この無駄な繋がりを省いて、興味の方から検索して人を探して、新しい関係を築いていく。結果的に、無駄のない、質の高い交流がまんべんなく広がる。これが彼らの求めた形だ。

ただ、これはおかしな話だ。「質」とは何か、という話だ。例えば、共通の好きなアニメの話ではこの世で一番盛り上がる間柄だが、他の話題は一切、そいつとはしない。別の話題は、それ専用の別の仲間とする。どうにも理解し難い。一人の人間と人間との繋がり合いの深さが「質」ではないのだろうか。どれだけ相手を思いやり、尊敬して、時にはぶつかって、多くを語り合えるか。これが「友」というものではないのだろうか。

彼らは私と近い考えをしているようにしか思えない。私は極力他人と関わり合いたくないのだが、彼らもまたそれは同じで、結局は、対人関係が面倒なので、自分の気の合う人しかピックアップしていないだけなのではないかと思わされる。これだけ多ジャンルからSNS友達を選んでいれば、ちょっと嫌なことを言う奴がいれば、すぐにブロックしてしまえばいい。それで自分の「ゆるい」コミュニティは保たれる。また新しく興味から検索してくればいい。

今、恋愛が流行らない時代になっているが、まさにこの感覚だと思う。一人の女、男に執着するのはとても面倒で、体力が要るし、すべての話題が共有できるわけじゃない。喧嘩してぶつかることもあるし、色々と面倒なのだ。そもそも恋愛を駆り立てる大きな心理は、「人恋しさ」だ。だが、これだけ自分を満たす分野のSNS友達がいるのなら、特定の恋人がいなくても、さみしさなんてないだろう。

これが当たり前になっていくと、いよいよ、「人類が滅びる」と言い出す学者が登場するだろう。彼らはどこで、パートナーの大切さに気付くのか、私には想像がつかない。

(アシベズヘア/facebook

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