体毛のエロス・・・「あたしの毛を剃ってくれない・・・?」

2013年8月、押見修造の初期作「スイートプールサイド」(2004年・ヤングマガジン)の実写映画化が発表された。この作品「スイートプールサイド」は、毛が生えていないことに悩む水泳部男子部員・太田年彦が、逆に毛深いことに悩む水泳部女子部員の後藤綾子に「あたしの毛を剃ってくれない・・・?」と、思春期には恥ずかし過ぎる(羨まし過ぎる)お願いをされることから物語は始まる。

太田年彦役須賀健太のコメントに「ある意味、究極の青春映画」とある。「男子が女子の毛を剃る」という話、多くの大人にとってはもう単なるフェティシズムでしかないだろうが、しかし、第二次性徴を迎えたばかりの思春期の男子女子にとっては、とんでもない事件性を秘めていると思う。

性毛、体毛が生え揃う恐怖、自分だけなのか、みんなそうなのか、今までは生えていないことが当たり前だった、必死に剃って隠す子もいれば、それを我先にと周囲に顕示する子もいる。それが救いになる子だっている、あ、自分だけじゃなかったんだって。もちろん逆に、自分の毛の量が、発毛のスピードが平均以上、或いは以下であることを知り、トラウマを抱えてしまう子だっている。それが毛深さに悩む後藤綾子であり、無毛に悩む太田年彦である。

す・・・すげえ・・・!

女なのにあんなに・・・生えてるなんて・・・

も・・・もしかして・・・ワキ毛も・・・?

押見修造

スイートプールサイド(6ページ)

プールサイドで見掛けた後藤綾子への「すげえ・・・!」という太田年彦の表現は、エロティシズムの表れではなく、同級生がみんな生え揃い始めていることへの焦燥感からの、無毛ゆえの純粋な憧れである。しかし、それは後藤綾子への身体に対する好奇心、魅惑へと、太田年彦の中で徐々に変わっていく。エロティシズムへと流れていく。

この「スイートプールサイド」は押見修造の初連載作品であるが、こういった思春期の心理描写はこの頃からとても上手いと感じる。ただ毛を剃ってるだけの漫画だろ、と馬鹿にできない。松居大悟監督がメガホンを取りたがるのも分かるし、多くの大人たちが苦笑し映画化を反対するのも分かる。性毛、体毛に何らかのトラウマを抱えた経験が無ければ理解できないリビドーなのだ。

まだ手に残ってる気がする・・・後藤の手と足の感触・・・

・・・それに・・・

あの・・・毛を剃る瞬間伝わってくる・・・

ジョリッ・・・って感触!

ああっ眠れないッ!!

押見修造

スイートプールサイド(77ページ)

太田年彦は必ず将来、いや、既に、性毛、体毛のフェティシズムの世界に足を踏み入れている。敢えて書かないが、ラストにはその目覚めを感じさせる描写がある。斯く言う私も、性毛、体毛に倒錯する一人だ。この作品の描写からも分かるように、一部の女子にとっては体毛は秘めたる部位であり、それは性毛とはもちろん限らない。剃毛という日々の弛まぬ努力と、それに抗うように執拗に生えてくる体毛との無限の闘争が、性的魅惑を掻き立てるのだ。永久脱毛など以ての外だ。

その秘めたる部位を恥ずかしがりながらも惜しげなく打ち明ける後藤綾子もまた、太田年彦とのエロティシズムへ流されている。後藤綾子とは逆だが、安めぐみがブルーザー・ブロディを好みのタイプだと語るのも同じことだ。自分とは異なるように創られた身体、それは何とも言えない好奇の対象であり魅惑なのだ。

「惡の華」もそうだが、この著者は思春期の機微なトラウマと、それを補い合う異性との依存を描くのがとても上手くて、読んでいる内に何度もドキッとさせられてしまう。私は性毛を必死に隠したがっていた思春期があるから、未だに性毛、体毛で悩んでいそうな女性に強く惹かれてしまう。太田年彦と同じように、私も抜毛や剃毛を喜んで引き受ける。腕や脚に触れた時のジョリッとした感触、首元から覗く薄黒い背毛、この堪らない興奮のすべては、思春期のトラウマにあるのだろう。

(転載:http://www.materialize.jp/art/column-essay/4298/

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