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まちで遊ぶ子どもが減った?「共」が欠けた時代に生きる子どもたち 〜まちと学び:前編〜 【校長いわたくのアタマノナカ#3】

みなさん、こんにちは。a.schoolでインターンをしている、現役大学三年生の大森友暁(もりりん)です。

今回はなんと、初の対談記事!先日おむすびスタンドANDONで行われた、『岩田拓真のANDONラジオ 荻野章太さんと一緒に考える「公共空間と学び」』の内容を大公開!

近年、街なかや友達の家で遊ぶ子どもが減ったように感じると話すいわたく。その原因の一つとして、まちに住む人々の関係性が薄くなり、まちに「共」が欠けてきていると話す荻野さん。まちと公共空間、そして子どもたちにはどのような変化が起きているのか?前編では、まちの現在と子どもの放課後の学びについて徹底分析します。

<登場人物>

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岩田拓真(いわたく):
株式会社a.school(エイスクール)代表取締役校長。1985年京都に生まれ、滋賀で育つ。京都大学総合人間学部卒、東京大学大学院工学系研究科修了(専門分野は、脳科学とイノベーション)。大学院在学中に、ひとり親家庭に対して動機づけ教育を行うNPO法人Motivation Makerを仲間とともに創業し、理事に就任。Boston Consulting Groupにて経営コンサルタントとして勤務した後、a.schoolを創業。探究学習の塾「a.school」を運営するとともに、様々な創造的な教育コンテンツの開発に携わる。自分自身も新しいことを学ぶのが大好き。一児の父。

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荻野章太(荻野さん):
1984年生まれ。ドイツ・デュッセルドルフ出身。積水ハウスにて不動産コンサルタントとして活動した後、国内最大級の美術見本市「アートフェア東京」にてコーポレート・リレーションズを担当。併せて「TOKYO ART BOOK FAIR」「東京国際写真祭」に携わりながら、新進気鋭の写真家たちの作品集出版に特化した出版社「lemon books」を立ち上げる。その後、3歳~小学校低学年の子どもたちを対象にしたアートワークショップを研究・企画運営する「art labo」のディレクターとして幼稚園や小学校、科学館にて活動。2016年6月、発達がゆっくりな未就学児を対象にした福祉施設「すこっぷ」を立ち上げ、園長として、アーティストと共同で企画運営する表現療育クラスの開設、行政・保護者対応、施設管理等を担当。2018年に東急株式会社へ入社。大田区池上に事務所を構える城南センターにて不動産コンサルタントとして活動する傍ら、池上エリアリノベーションプロジェクトを担当。

1. まちから子どもが消えた?まちの関係性が希薄に?

いわたく:今日はよろしくお願いします!早速なんですが、荻野さんは最近のまちと子どもたちの学びに関して、どんなことを考えていますか?先に僕が思っていることを話しちゃうんですが(笑)、最近はまちで子どもが遊ばなくなりましたよね。公園にいる子どもの数が減ったし、昔のように空き地や道路などで自由に遊ぶことも少なくなってきているなぁと。子どもが巻き込まれる事件が社会的に注目されるようになったことで、子どもだけで外遊びをさせることに不安感を抱く保護者が多くなったけれども、かといってずっと見守ることもできない。となるとどうしても、家の中にこもることになっちゃうんですよね、外で遊ぶこと自体を避けたいわけではないのに。

空き地に勝手に入って遊んでこそ、子どもだと思うんですけれどね。そこで何かやらかして怒られてもいいんですよ(笑)。子どもたち自身の「やっちゃう」チカラが弱まっている気がします。許可がないと動けないというか。土地管理している人も、もしそこで何かが起きたら責任問題になるから、リスク管理の思考が強く働いて、ロープをしたり、壁を作ったりして、できるだけ人が入れないようにしがちだし、子どもの外遊びが減る傾向に拍車をかけているのかなと。

荻野さん:それはおそらく、まちに住む人たちの関係性が以前に比べて希薄になってきているからじゃないですかね?以前のまちに、子どもを見守る顔見知りの大人がたくさんいて、それがセーフティネットだった。けれどまちの人間関係が希薄になった今、各家庭が防犯への意識を高める必要が出てきました。共働きの家庭が増えたことで、子どもたちを教育サービスに参加させて事業者に守ってもらいながら勉強もしてもらおうとする方々が増えています。

いわたく:なるほど。家にいなさいって子どもに言うか、お金を出してどこかに子どもを預けるかの二択になっちゃっているってことですよね。子どもたちにとってまちの人々が、見守ってくれる安心感のある人から、よく知らない危険かもしれない人になってしまった。

荻野さん:そうですね。確かにお金を払えば一定の「安心安全」を買えますが、そうすることで狭まっていく領域があります。それは、「共」の部分なんですよ。社会には、政府や自治体が担う「パブリック(公)」の領域と、個人や家族、さらには企業まで含めた「プライベート(私)」の領域がありますが、その中間領域として、非営利組織や自治会、商店会などが活動する「共」という領域があるんですよね。そこから生まれたまちの関係性が、子どもたちを守る防犯機能を担ったり、まちを遊び場にしたり、学校では出会えない多様な人たちと交流できたりと、この領域が生む独自の価値を失うのはもったいないと感じています。

まちづくりは「関係づくり」と思っています。人が一人いるだけだとまちになりませんから。ただ複数人いるだけでもまちになりませんよね。一人ひとりの関係性が生まれたときに、まちになると思っています。

例えば個人商店が減ってチェーン店が増えていることからも伺うことができて。店主とお客さんがお互い顔見知りになって人間らしい関係性が生まれやすい個人商店に対して、チェーン店だと従業員の出入りが激しかったり、効率的なオペレーションが徹底されていて無駄話をする余白が少なかったりと、同じようにはいかない。それに、長期的にまちに根ざす個人商店に比べて、チェーン店は参入・撤退の判断も早い。これはあくまで一例ですが、だんだんとまちから社会資本の受け皿、つまり「共」の領域が失われているんじゃないかなって思うんです。

サービスの安定性や利益率なんかを考えると経済効率が良いチェーン店ですが、社会資本づくりという観点でみると、デメリットが多い。でも、地権者さんからしてみれば、家賃を高く払ってくれて、事業継続性がある事業者に入ってもらいたいですよね。消費者も経済効率が高い商品を求めているのも事実です。なかなかこの「共」の後退は止まっていません。時代の変化に合わせた新しい「共」の在り方を探す必要があります。

いわたく:わかります。共につながって、助け合ったり関わったりする関係性が大事というのは僕も同意です。関係性が豊かなまちには、子どもたちが安心して自由に遊べるからこそ生まれる学びがあったんじゃないかなと。公園や空き地、まちの施設などの「場所」も、地域のおばさんや商店のおじさんなどの「人」も、本来は学びの宝庫。でもそれらがうまくつながらない、いかされないことで、遊びや学びの縮退を招いてしまっているってことですよね。

2. SNS時代に、まちのランダムな出会いがもたらす多様性

荻野さん:まちの関係性をつくるものとしては、自治会とか、民生委員とかもそうです。民生委員は、家を一軒一軒まわって話をしたり、聞いたり。困っていることも聞いてまわります。こういう活動はお金にはならないんだけど、まちの社会的な資本になるんですよね。孤独死の抑止につながったり。公的なサポートを一番必要としている人たちは、様々な理由で行政の窓口まで来られない方々が多いです。そんな人たちを支援できたりもします。

でも最近は賃貸に住む方が多くなり、自治会という仕組みを必要としていない人たちが多くいます。自治会は、高齢化・人材の固定化が進み、うまく機能しなくなってきている団体が多くなってきています。

いわたく:まちの自治会は面倒なものだと思われがちですよね。それよりは、自分の気の合う友達と会ったり、仕事仲間と過ごしているほうがいいなって思うその感覚、個人的にはわかるんです。実際、僕自身も一度は参加した町内会の集まりに、忙しさを理由に全然顔を出せずにはや数年が経ってしまったし・・・。

だからこそこの問題を考えるときに、社会の変化を意識することが大事だなと感じていて。一つの場所にずっと住み続ける人が多かった時代から、特に都市部では賃貸で移動する人が増えて、「場所に紐づけられた人」が減っているんですよね。その土地ならではのつながりが、相対的にも絶対的にも弱くなってしまっている。そんな状況でただ関係性を取り戻そう!と叫んでも、一人ひとりにモチベーションがわかないし、心理的なハードルも大きい。昔に戻るのがいいというわけではなくて、今の時代の流れを捉えながら、「共」について考えていく必要があるなと思いました。

荻野さん:まちや場所で人が紐づかなくなっているっていうのはまさにその通り。今の時代、情報がこれだけオープンになってくると、自分の趣味や興味関心が合う人とSNSなどで簡単につながれるじゃないですか。となると、まちでの関係性よりもそっちが楽しいってなりますよね。まちには色んな価値観の人たちがいるっていう面白さがあるけれど、それよりも同じ価値観を持った人が集まるほうが、簡単で居心地がいい。

いわたく:そうですよね。どんなニッチなことでも、一つのことに興味関心が強い人同士がつながりやすくなった。クラスの中で誰とも共有できなかったような自分の「偏愛」を分かち合ったり深めたりすることができるのはSNSや今の時代のコミュニティの良さで、そういう方向にテクノロジーや社会はどんどん進んでいます。a.schoolでも、電車マニアの子どもが仲間を見つけて大喜びしたり、生き物好きが一緒に盛り上がったり、興味関心を軸にしたコミュニティの意義もとても感じています。「ああ、今まで仲間がいなかったんだな」って。子どもたちの視点に立つと、その嬉しさがとてもよくわかるんです。そういう観点では、いい時代になりました。

荻野さん:SNSだと、基本的には趣味嗜好の合う人しかタイムラインに表示されないですよね。だから、それとちょっと自分の価値観の合わない物事を見ると「あれっ?」ってなってしまいます。違和感を感じたものに対して、接しないようにすることもできる。そうすると、居心地がいい小さな集団の中から出なくなる。その傾向が極端になると、他人と協働しづらくなったり、気づかぬ内にどこか排他的になってしまう。趣味嗜好の合う人とのつながりが強まっていること自体はまったく悪いことではなくて、岩田さんの言う良さもよくわかります。ただそういう世の中だからこそ、まちにいる色んな人とすれ違ったら挨拶するぐらいの関係性さえできていれば、バランスがとれていいんですけどね。

いわたく:同じような価値観の人が集まることが増えたから、それによって、自分と違ったタイプの人を受け入れるのがより難しくなってきているんじゃないですかね。結果、「多様性を受け入れる感覚」が失われてしまっている。僕たち(a.school)は、子ども一人ひとりの好きなことを伸ばすことを大切にしているから、好きなことが一緒の人同士で集まって話を深めていく場の重要性も強く認識していますが、それだけじゃだめで、価値観や感覚が違う人同士が出会ってぶつかる場も重要ですよね。自分の人生を振り返っても、ヤンキーが多いエリアで小学生時代を過ごしたこととか、大学時代に世界中に友達ができたこととか、世界トップクラスの大学や職場にいられたこととか、色んな環境に身を置けたことは本当に貴重だったなと思います。友達や知り合いの幅が広いと、考え方が固定化しにくいというのは、今も強く実感していますよ。

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(イベントの様子。和気あいあいかつ真剣に、まちづくりについて話す二人。左:荻野さん 右:いわたく)

3. ボトムアップで掘り起こす、まちの関係性

荻野さん:もし、最期まで価値観や趣味嗜好が合う人とだけ接して、幸せに暮らし続けることができるのであれば、それはそれでいいのかもしれない。でも経済社会が不安定になったり、自然災害が起きたりしたときに、社会資本、つまり人と人との関係性はセーフティネットとして重要で。今私は池上エリアリノベーションプロジェクト(以下池上ARPJ)に関わってるんですけど、この前の台風19号でも、池上では人たちがめちゃくちゃ動いていて感動しました。「公」「共」「私」が連携して機能できていれば、災害が起きてもまちは簡単に崩壊しない。崩壊しても再生できる。

いわたく:価値観や趣味嗜好をベースとしたつながりだけでなく、土地に根ざした多様な属性の人々の集まりも大事ということですよね。前者の関係性のデメリットの一つとして「距離の遠さ」があって、いざというときには隣人が頼りになることがある。

僕には0歳の息子がいるんですが、この前の台風で1階にある自宅が浸水したらどうしようってなって。避難所に行くことも考えたんですけれど、赤ちゃんにとっては負担が大きいしどうしようと。そこで2階以上ある両隣のお宅に、「いざというときにはお願いします!」と助けを求めたんです。そうしたら「いいよー!」って快諾してくださっただけでなく、嵐の最中に緊急連絡先まで渡しに来てくれて。息子の誕生をきっかけに近隣の方と立ち話をすることが増えたおかげで、こういう局面で助け合うことができるんだ、この土地に住む財産だなと思えました。

荻野さん:まさにそういう地域資源を活かそうと、池上ARPJはまちに『SANDO BY WEMON PROJECTS』というカフェをつくり、まちの人たちと会話しながら、地域資源を再発掘・再発信して、それを魅力に感じた内外の方々の居場所をまちにつくりたいと模索しています。まちそのものが人と人との関係性だと考えた時に、まちの人たちとの対話を起点にした小さなプロジェクトをたくさん共創していくなかで、「共」の領域部分がより広がっていってほしいと勝手ながら願っています。「共」が広いまちは、サバイバル力があるというか、強いです。

人口が減少し、公共の「公」が全て担うことも難しくなっているなか、行政は「私」企業に一定の権限を与えて公共空間を盛り上げようと、試行錯誤をしています。「公」はある程度そういう方向で対処できますが、「共」は、一朝一夕では育ちません。

例えば、行政の人たちも、企業の人たちも、まちに出て一人ひとりの話を聞くのはなかなか難しいと聞きます。そのため、先ほど紹介したSANDOというカフェの運営者である美術家と建築家のユニット「SS」を通してまちの人たちと気軽に会話できるようにしています。そして彼らがまちの人たちとそれ以外の人たちと、商品やイベントなどを共創する過程の中で「共」は生まれると信じています。

4. 「浴びる学び」に支配される、子どもたちの放課後

いわたく:話は変わりますが、最近は友達の家で遊ぶ子どもも減っていますね。今の子どもが放課後どういう過ごし方をしているかというと、大部分が学童と習い事。週5で何かしらに通う子も結構いますね。この理由の一つには共働きの増加があって、親が子どもの居場所をお金でアウトソースしているという側面もあるんです。

この影響からか、子どもが非常にサービス慣れしているなあと僕は思っていて。自分たちもa.schoolという教室事業をやっていて矛盾もあるのですが、子どもたちが与えられる遊びや学びに慣れ過ぎている気がして、違和感があるんです。「わかりやすい授業」や「面白い授業」を提供してくれる場所だと認識しているんですよね。

僕が好きなサカナクションの山口一郎さんは、若い頃からレコード屋さんに通い詰めて、いろんなレコードを探して音楽を聴いて探究していたそうですが、彼が「今は探す遊びが減っていて、浴びる遊びが増えている」と仰っていて。この言葉が僕の心に刺さったんです。学びも遊びと一緒で、浴びる学びが増えているんだなと思ったんです。荻野さんはこれについてどう思いますか?

荻野さん:150%そう思います!私も都内各所の幼稚園と小学校でアートのワークショップをやっていた時期があるんですが、子どもから「今日は何してくれるの?」っていう発言が出るんです。それを聞いたときに、「いや、みんなでつくるんだよ」って思うんですけど、彼らに罪はなくて、私がやろうとしているワークショップがその発言を促してしまっている部分もあるんだと思って複雑な心境でした。自ら探して遊んだり学んだりする機会が減ると、主体性と創造力が徐々に減少していくんじゃないかと心配しています。

まちのことに話を戻すと、実はまちにはいろんな仕事があるんです。回覧板を回すとか、家の近くを掃除するとか、町内会のイベントのお手伝いとか。そういうことを通じて本来、子どもたちは社会について学べるはずなんです。でも、まちで子どもを見守れなくなったことで、子どもたちがそういう仕事に触れなくなり、教室の中で「社会」を学ぶようになった。暮らしの中の実体験が不足しています。

暮らしの中で学べないから、親はお金を払って子どもに何らかの教育サービスを与えて、そこで学ばせるということが増えてしまいます。そして子どもはサービスの対象にされます。習い事だけではなくて、学校も十分に社会に開かれていないので、子どもが子ども中心の空間で管理されていっちゃうんですよ。

いわたく:まちの中だけでなく、日常生活での学びが減ってしまっていますよね。学校と習い事が学びで、それ以外は学びではないと思ってしまっていたらそれは大きな損失です。

荻野さん:はい、生活と学びが切り離されている気がします。家に帰るともう学びのスイッチはオフになっちゃうみたいな。あと、日常の暮らしの動線が、家と学校、家と習い事の教室、家とオフィス、などを往復するだけになってしまって、街が「ただ家がある場所」「ただ通り過ぎる場所」になってしまっていてはもったいないです。

5. 「探す学び」にあふれるまちづくり

いわたく:まさに、自分たちが教育事業を営むからこそ、この生活と学び、遊びと学びの分断を乗り越えたいといつも思っていて。例えばa.schoolは、知識を教わるのではなく、自分で考えたり作ったり探したり発表したりするような学び場なんですね。そこでは、空白・余白をデザインすることを大事にしていて。授業で扱う大きなテーマはこちらが設定しますが、その範囲で子どもが比較的自由に動けるように設計しているんです。既存の勉強に比べると非常に自由度が高く、「浴びる学び」ではなく「探す学び」であることは自負しています。子どもたちがいきいきと自発的に学んでますよ。それ以外の時間で管理されていることが多いからかもしれませんが、とてつもないエネルギーが溢れ出てきて、毎回大変です(笑)。

でも、習い事事業者であることも事実で、保護者の方にお金を払ってもらって、子どもが教育サービスを受けるっていう枠組みは超えられないんですよね。探究の塾を増やすことに社会的意義はもちろんあるので、これはこれで推進していきます。でも目指すのは、日々の暮らしのなかでいつの間にか子どもが遊び学びまくっているような、あらゆる場所で自律的に「探す学び」ができる社会を再創造すること。今の時代にあったまちや公共空間における学びをつくっていきたいっていうのは、荻野さんとも一緒によく話していてる壮大なミッションの一つです。

荻野さん:私も同じようなミッション感をもっています。今、SANDOa.schoolの「なりきりラボ」「おしごと算数」をやってもらっていますよね。たまに授業を観に行くんですけど、まず教室ではなくてカフェで授業している光景は非常に新鮮でした。外から見ている私からは、子どもたちの様子は大人がカフェで話しているのと同じ感じに見えていて、勉強している感じでは全然なかった。完全にカフェに溶け込んでいる。面白いですよ。

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(SANDOでの授業の様子。カフェのおだやかな雰囲気の中で授業を行っています。実は私もりりんが講師を担当しています!)

これだけでまず新しい取り組みだと思うんですけど、その次のステップとして、まちの人たちと子どもたちが共創する場があると面白いかなあと思っています。その共創作品の展示をやってみるとか、まちの調査をしてみるとか。池上は日蓮宗の宗教行事「御会式」が有名なんですが、纏(まとい)っていう道具を回す達人とか、面白い人がたくさんいるんです。そういう人と子どもたちをつなぎたいですね。子どもの口がポカーンとあくような体験が、たくさんあるはずです。

昔はまちにそういう自然な出会いがあふれていて、それを遠いユートピアのように話す大人もいますが、そんなことを言っているだけでは何も変わらないので、我々のような人が間に入ることで、まちの人と子どもの接点をつくるのがいいと思っています。最初だけ手伝ってあげれば、どんどん創発が生まれていくはず。

いわたく:僕も、昔のいいところと今のいいところを組み合わせて再創造していくことが大事だとつくづく思っています。時代の変化に逆らうのではなく、古き良きものと新しい価値観や技術とを、上手に化学反応させていく。そういう学びのプロデューサーでありたいですね。

SANDOでの授業で面白いのは、子どもたちが半分開かれた空間で学ぶだけで、教室とは違う反応が生まれることですね。いつもの教室だと、自分たちだけの空間だと思っている子どもたちは、自由にやりたい放題(笑)。対してSANDOだと、自由な学びの良さは残りつつ、子どもたちが外の様子も自然と意識しながら学んでいるんですよね。あと、SANDOという特殊な場が持つチカラも大きいんです。

今、「コンビニ店長(おしごと算数)」っていうテーマの授業をやっているんですが、初回の授業でコンビニのサンドイッチはいくらかっていうクイズがあって。そこから派生して、SANDOのサンドイッチはなんでコンビニの2倍の値段なんだろうって話になって。じゃあ聞いてみようって言って、子どもがその場で店員さんに聞きに行ったんです。普通の教室だったら、後で調べてみようってなっちゃうんですけど、その場で大人も巻き込んで話が広がったのはとてもよかったですね。まちに開かれた空間で学んでいると、学んだことをすぐに行動につなげられる、社会のなかで確かめられるのがいいなと。場の力が子どもの学びをこんなにも変えるのかと驚くと同時に、もっといろいろな授業と外の世界をつなげて化学反応を起こしてみたくなりました。

6. 五感を使って、まちで学ぼう

荻野さん:カフェっていう場は肌身で物事を体感できるじゃないですか。いいですよね。その空間に誰がいて、誰がどんな商品を買っているのかもわかる。ゆったりとした時間が流れていて、音楽が穏やかに流れている。子どもって言語的な発達はまだまだこれからだけど、非言語的なところは大人よりも発達していてよく感じているんじゃないかと思うんですよね。非言語センサーが敏感な時期の子どもに対して、言語的な教育ばかりに偏るのは非効率ではないかなと思います。まちに出たら、その雰囲気や香り、音などをまずは感じて学びとることができる。そのほうが深く記憶に残るんじゃないですかね。

いわたく:大学生や社会人になっても、オフィスを出て現場で実践したり、フィールドワークに行って現場を観察したり、何歳になってもそういう機会は重要だと思います。でも特に子どもは、五感を使っていろんな角度で学んでいるかどうかで、同じことを学んでいても吸収率が全く違う気がします。

荻野さん:そのことは、以前調布でやっていた福祉施設の発達障害の子どもたちが教えてくれました。中には言語が得意な子どももいますが、苦手な子が多くて。でも、造形や色にはとても感度の高いセンサーを持っています。自立が目的の施設なので、一緒に近くのスーパーまでお買い物をしに行ったりしたことがあるんですけど、ある子がブロッコリーに釘付けになっていて。「何だろう?」と思って自分もよく見てみたら、ブロッコリーの形がめっちゃ綺麗なんですよ、フラクタルになっていて。他には予算が限られているにも関わらず、本マグロにこだわる子もいて、理由を聞いたら赤みが違うんだって。よく見てみると同じ赤でも全然違いました。赤の深みが違う。私には見えていなかったんだなって思いました。

いわたく:まちもそうですし、自然もそうですよね。外に飛び出て体感しながら学んだほうが絶対にいい。僕は大学時代脳科学を学んでいたのですが、脳という一器官に執着しても、身体というハードがなかったら脳は何もできませんからね。脳と身体の進化って切っても切り離せなくて、脳と身体を統合的にとらえる研究領域がどんどん広がってきているんです。だから、生物学的にも、自然のなかで学ぶ、まちのなかで学ぶことの重要性を説明できると思います。

さて、現状のまちと学びについてはかなり話が進んだので、ここで一旦区切ろうと思います。次はまちや公共空間での学びにおいて、今後何ができるか、企画会議みたいな感じで話していけたらと思います。

<後編に続く>

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