光市島田川にかかる鉄橋
私がレポートしている道路ネタを発見する端緒は2つあり、一つは地図読みやネット情報などから面白いものがありそうだと検討をつけて探索すること。そしてもう一つは、ドライブや散歩中に偶然出会うこと。どちらが多いかと言えば、後者がやや多い。常に面白いものがないかと意識して過ごしていると、意外と出会ってしまうのである。
今回は、偶然見つけてしまったネタからのご紹介。
1 現地調査
某年某月某日、私は遥か光市の果てにいた。
実際は果てなんて大袈裟なものではなくて、何となく気持ちよさそうだと思って足が向いただけのことである。
私がいるのは、次の星印のところ。
大変景色のいい場所ですっかり気に入ってしまったのだが、私の頭の半分くらいは、ここに来る途中に見かけた「気になるもの」の存在に支配されていた。地理院地図に記入したとおり、国道188号が島田川を渡る千歳大橋の南にそれはあった。これは、帰りにしっかり観察せねばならん。
というわけで、早速踵を返す。
見えてきたのは鉄橋である。見るからに強固な12本の橋脚で支えられた鉄橋。私はあの鉄橋の正体が気になったのだ。
近づいて観察してみると、導水管のようなパイプが取り付けられた鋼鉄製の橋だと分かる。しかし導水管を通すだけの橋としては妙だ。
というのも、橋脚が立派すぎる。感覚的なものであるが、線路か道路を通すのでなければ、これほどの数の堅固な橋脚を築かないのではないだろうかという違和感。端的に言って、構造が豪華すぎて現状に見合っていない。
私もかつてIT革命を経験した世代なので、この場でネットを使って調べてもよいのだが、さすがにそれは面白くない。調査は帰宅後に譲り、現地調査で橋の正体に迫ってみたい(レポートにしている以上は今の時点である程度正体が分かっているわけで、茶番のようだが、現地での考察を再現することで謎解きゲームのような道路趣味の面白さの片鱗を御覧いただきたい)。
橋の断面。きちんと測っていないが、幅は1.5mないくらいだろうか。この狭い断面サイズから、道路ではなく線路が通っていたのではないかと思った。鉄道の軌道幅としては十分な幅だ。もちろん単線である。鋼鉄製の橋桁の上に単線の軌道があったのだろう。それが廃止後、パイプを通すためのガイドに利用されている。
ところで、やたら存在感のあるこの構造物だが、水門のようだ。平成4年完成なので鉄橋(軌道跡)とは直接の関連性はないだろう。
さて、ここまでの観察で鉄橋が軌道跡だと考えて矛盾はないと思うが、もう少し補強する情報も欲しいな。
そう思って辺りを見回してみると・・・。
!!!
鉄橋から道路を挟んで反対側に、怪しげな盛土があるではないか。今は木が生えてしまっているが、この高さ、この位置・・・。
こういうことでしょ!
盛土の正体は、かつて軌道が通っていた築堤ではなかろうか。鉄橋が鉄道橋だとすれば、当然どこかと繋がっていなければならないはずである。その一端に築堤と思われる盛土が発見されたことは、軌道跡説を補強する材料だ。
よし、左岸側の観察はここまで。次は右岸側を見てみよう。
・・・・・
はい、右岸側にやってきました。
右岸側は枯れすすきがポヨポヨしていて、道路に接していた左岸とは少し印象が異なる。
植物の侵食が激しい右岸側。なお、鉄橋のフェンスに設置された小さな白い看板は、立入禁止を告げる看板で、新日本製鐵㈱光製鐵所名義である。これも軌道の正体に関係する情報だろう。
左岸では鉄橋をやや見上げる位置から観察したが、右岸は土手が盛り上がっていて、軌道跡と同じ高さである。
周囲を観察すると・・・。
!!!
また、いただきました。
構造的に鉄道の軌道があったと思われる鉄橋。そして両端には軌道が続いていた築堤と思われる盛土地形。
現地で得られた情報は以上ですべてだが、この時点で私は99%間違いなく、かつてこの鉄橋を利用した鉄道が通っていたと考えた。
そして、鉄道の正体は、立入禁止の看板の名義人及び位置的に、新日本製鐵㈱光製鐵所(現・日鉄ステンレス)、または前身である八幡製鐵所への石炭輸送の便のための私線であろう。
この地図で言えば、右下一帯が日鉄ステンレスの光事業所である。左岸側の築堤跡の位置から考えて、他の目的地があったとは考えにくい。
また、右岸側は、現在のJR光駅に接続していたはずだ。石炭採掘地から光駅、そこから私線を通って製鉄所へ、という流れが目に浮かぶようではないか。
では、帰って裏付け調査をしてみようか。
2 机上調査
鉄道があったか否かは、定番の古地形図調査によって簡単に判明した。
これは昭和24年の地形図。大当たりだ。光駅の東から分岐して島田川を渡る鉄道路線が描かれている!終点は現地で発見した左岸の築堤辺りだ。
一つ妙なのは、この終点付近に何もないことである。
私は製鉄所関連で線路が引かれたと思っていたが、早速予想を外した形である。この地形図が正確であるなら、製鉄所ができる前に既に線路が存在したことになる。直前に「石炭採掘地から光駅、そこから私線を通って製鉄所へ、という流れが目に浮かぶようではないか」と悦に入って書いたが、ただの気持ち悪い妄想であったのか。
なお、これより古い地形図では鉄道の存在は確認できなかった。
次は昭和43年版地形図を見てみよう。この時代には、八幡製鐵所が操業している。線路も単線の記号であるが残存している!もしかしたら、この時代なら、私の妄想したような運行がされていたのかもしれない。
昭和43年ならそんな大昔というわけでもないので、どなたかご存知の方がいらっしゃれば情報提供をお願いします。
最後に昭和60年版。すでに軌道後は、地図上には何の痕跡も残さず消滅してしまっている。私の勘だが、遅くとも自動車輸送が全盛となってきた昭和40年代後半ころには、鉄道は廃止されていたのではなかろうか。
地形図の調査は以上である。
さて、鉄道が製鉄所と無関係に存在していたとすると、その目的は何だったのだろう。
答えは光市報にあった。
現在もwebで公開されているので興味があれば読んでほしいのだが、この鉄道の正体は、
旧光海軍工廠への鉄道引き込み線
である。
これは私の知識不足だった。現在の日鉄ステンレスがある一帯は、昭和20年まで旧海軍工廠であったのだ。なるほど納得。軍事施設なら、昭和24年の地形図には何も載っていないはずだ。
鉄橋の正体が分かったところで机上調査も一旦終了。現地での予想は、1勝1敗というところだ。海軍工廠があると知ってればな!というのは、負け惜しみ。
現在では両岸の築堤遺構に挟まれて、本来の役割とはかけ離れた仕事を黙々とこなす鉄橋。叶うことならその現役時代の姿を拝んでみたいものである。
おわり
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