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処女失格(1) 君が男ならいいのに

 今年の冬将軍は、人に甘かった。
 街はやれバレンタインだ何だと浮かれているのだけれど、私の子供の頃に比べれば随分と優しいイベントになったような気もする。
 何故なら、チョコレートをあげる相手は必ずしも恋仲の関係じゃなくても構わなくなったから。
 いっそ義理チョコまでやめてしまえ、という動きまで出ているのだから驚くばかりである。
 でも私は……同性から貰う安いチョコを、バレンタインデーの後からチビチビと食べるのが好きだ。
 それが毎年、この時期の密かな楽しみ。
 だから今年も、周りの女の子たちに義理チョコはやめて欲しくないとは思うのだが。
 そういえばあの人も奥さんからチョコでも貰ったのだろうか、離婚しそうでしないでいるけどどうなんだと、バイト先でネタにしようとしていた矢先だった。
 心と胃の痛む、大変なことが起こったのは。

 人気バンドROSY ARIA(ロージー・アリア)の黒曜さんこと、黒部次郎が離婚した。
 なんとこれで二度目だ。
 その理由に私は心底呆れ、胸を痛めた。
「あれですね、ノンケのオカマもどきあるある」
 と、清隆さんはしれっと言ってのけるのだが、十年以上の付き合いだからこそである。
 しかしまぁこれがあるあるだというのもあんまりだ。
 さすがに……警察の世話になるのはレアケースじゃなかろうか。
「……本当、あいつってばバカ」
 彼は苦い顔をしてつぶやいた。
「ま、逮捕前に無観客ライブを配信できたのは幸いかしら」
 このおじさんもそれはそれでバンドとカネのことしか考えないから何とも言い難いが、警察のお世話にならないだけマシだろうか。

 次郎さんの、一度目の離婚の理由なら分かっている。
 趣味で社会人バンドを組んでいた彼に、清隆さんがふざけて声をかけたのが元凶だ。
 そうやって女装しだしたらハマって、自分の心が女なんじゃないかと思って豊胸手術までしだしたのだ。
 何十年か男として生きてきて、子作りにも励んでいた人間が突如借金を抱えレズビアンを自称する……その変わり身の早さに(前の前の)奥さんはびっくりさせられたという。
 この、前の前の奥さんが自分だったらと考えると結構ゾッとする。
 その詳細は怖すぎて、清隆さんにはほとんど聞けないでいる。

 仕事部屋で胃がキリキリ痛むような案件とにらめっこしているうち、能天気な青年が軽食を持ってきてくれた。
「チーッス、今日は鮭おにおにだよぉ〜☆」
「あぁ、ゲイでもオネエでもない、きゃわわなダンボール製ベースのユウキか」
「あらやだ何その説明口調。ってゆーかネイビーさん昨日と同じ服着てる。泊まり込みで編集してるからってそれはないっしょ」
「どうせ冬場だし、暖房あまりつけないから汗かかないし。着替えあんまり置いてないんだ」
「そんなぁ。落ち込みそうな時には、可愛い服を着ればいいのに!」
 と言ってから数分……持ってきたのはフリフリのセーラー服……!
 いつも思うが、ユウキはそんなのをどこで見つけるんだろう。
「私もう落ち込んでるわ。あのおじさん捕まったから」
 ユウキは多分冷や汗でもかいてるだろうか、えへへと笑ってその場をごまかしていた。
「まぁ元々はおキヨさんのお衣装だからね、ちょっと大きいのは勘弁してくださいっス」
「……分かった。そのロリータ着てやるわ」
 かくして、私はゆめかわクリエイターとなった。
「きゃわわなメイクまでは求めていないのだが」
「えー? すっぴんじゃ気分アゲアゲにはならないじゃないの。ネイビーさんってばマジ男みたいだよねぇ」
 いやいやいや。
 その男みたいな人間の本業、動画編集じゃなくてグラビアアイドルなんですけど。
 ユウキはちょいちょい意地悪だ。
 しかもメイクが私よりも手慣れているものだから、ますます意味が分からない。
「でもネイビーさんはね、男ならいいのになぁってむしろ思うんだ。そんでねぇ、こうやって可愛い服着せてイジるんだー」
「イジられる身にもなってみろ」
 まぁ内心、ロリータ姿にされるのも悪くないが。
 アラサーのフリフリを褒めてくれる妹なんてのは、なかなかいないし。
「本当……明里くらいだよ? 『一周回ってオカマ』なんて罵らない子は」
 私は嘆息をついた。
「ユウキや清隆さんだけじゃないよ。どいつもこいつも、藍里ちゃんは女のクセにオカマなんだってさ」
「え、やだ。ぼく地雷踏んだ?」
 目を泳がせるユウキに、私はこくりとうなずいた。
「でももう慣れてる。社長にお枕強要されることもなく、処女奪われないのもそういうことだろって」
「うっ……すんません……」
「それって幸せなことなのかね」
「いや、男のぼくには何とも」
 そういう色めき立った何かは、クラブで女装のおじさんに便所まで付きまとわれたくらいしかなかったし、そもそも楽しくなかった。
「女の幸せって何なんだ」
 おにぎりを平らげ、水とともに胃薬を飲んだ私は言った。

 幼い頃から抱いていた夢は、古風だけど「お嫁さん」だった。
 だけど好きな漫画は他の女の子とはズレていて寂しかった。
 大人になってもその調子で、同性の友人はほとんどいない。
 パソコンをいじったり、周辺機器を買い集めるのが好きだと言ってみたら、どうしてコスメとかじゃないのと本気で怒られたこともある。
 ……友人だと信じていた男に、だ。
 だからもう、妹の明里が私を愛してくれるならそれでいいやと思って未来を諦めた。
 諦めた……つもりだったけど。
 雑誌で水着姿を披露して、それを周りの人に認めてもらえるのなら、自分は誰かのお嫁さんにでもなれるだろうかと。
 そんな、どうしようもない望みを抱いていた。
 どうしようもない、と分かったのは芸能界デビューしてから何年か経った頃である。
 オタク男性とガジェットの話で盛り上がれる、家でも外でも可愛い奥さん……だなんて、とてもじゃないけど自分はなれなかった。
 世間の理想は高くて疲れる。
 そんなに可憐なフリしなきゃいけないのか。
 そんなに頭悪いフリしなきゃいけないのかと。
 そうやってグラビアが、アイドルが本業なんてのは大体嘘になっていった。
 表面上の女らしさでいえば、それこそ次郎さんの方がよっぽど上である。
 けれど私は、そういう風に「女らしさ」を押し付けられたくないし、都合よく捻じ曲げて欲しくない。
 それでも誰かと恋をしたくて、その末に結婚したいと思う自分の方が、よっぽど押し付けがましいのか。

 スマホをいじるユウキは、さっきから苦笑ばっかりしている。
「えー? やだやだ、SNSめっちゃ燃えてんだけど。何で次郎さんを擁護する人まで出てくるかなぁ」
「……そんな旗の方こそ燃えりゃいいのにね。本人には言わないけど」
 私が一番嫌いな色は虹色だ。
 だからスペクトラムとしての色が欠けている人に惹かれ、導かれるのだろう。
 次郎さんだってその人のひとりだったはずだけど、彼はいつの間にか彼女になり、戸籍が男のままなのにレズビアンになり、LGBTになって歴代の奥さんを踏みにじった。
 だから私は、ああいう類の人は苦手である。
「ユウキ……私が男だったらさ、次郎さんの元奥さんたちも幸せになれるもんなのかな」
「いや、その件はすみませんってマジで」
「しょうがないじゃないか。君の元カノのせいで余計に、ここ何年かは酷い目に遭ってるんだぞ」
 半ば冗談めいた口調で、私は返したつもりだった。
「あ〜……セナさんね。セナさんって自分を『ボク』とか言いながらも女の子っつーか、Lシスの中じゃ一番ズルいですもんね」
 ユウキの目の奥が笑っていない。
 かつては仲良さそうだった芸能人カップルも、キラキラの裏を見てしまえばこうなるのか。
「それに比べりゃ、ネイビーさんは男前のお姉さんってしてたくましいです」
「それ褒めてるのか?」
「褒めてますっ! パソコン組み立てるとか動画にテロップ入れるとか、そういう仕事ぼくは無理だし! 助かってるっておキヨさん言ってた!」
「そっか。そうだろ?」
「はいお姉さま!」
 私とそう歳の変わらぬユウキが、必死になって頭を下げている様が何だかおかしかった。
 思わず声を上げて笑った。
「何で……私、『Lシス』なんていうアイドルやってんだろうね」
 アイドルユニットなんてやってちゃ結局、男と恋愛するななんて言われてしまうのに。
 ユウキと喋るのは面白かったけど、同時に切なくもなった。
「なぁ、ユウキはちょくちょく『ネイビーさんが男ならいいのに』とか言うじゃないか。それ本当だったら結婚できなくない?」
「あ、そっか」
 彼はポンと膝を打ったが、すぐにワタワタしだした。
「え!?」
「私、お嫁さんになる夢持ってるんだ」
「ぼくの!?」
 私はとうとう腹を抱えて笑った。
「……冗談。君のお嫁さんになるつもりはない。自分が男だろうが何だろうが、恋人になるつもりも多分ない」
「君の、ってことは……それ以外はマジっスね」
「マジでいちゃダメか、って言いたいけどね。恋愛結婚だったはずの次郎さんがああじゃねぇ」
「そ、それは笑いながら言うことじゃなくない!?」
「笑うしかないだろ」
 笑い飛ばすしかないじゃないか。
 私の夢は、夢でしかなかったと思い知らされたんだもの。

 例のロリータセーラー服姿は、ユウキによってバッチリ撮られていた。
 昼過ぎに家に帰ってその画像を見せると、明里は心底喜んだ。
 こういう笑顔を見ると、長時間座りっぱなしで液晶画面とにらめっこ、の苦痛も少し和らぐ。
 でも、少しでは足りないのだ。
 ゲームでフラグを片っ端からへし折られたみたいな気分である。
「しんどい。しばらく寝るわ」
「あ、お姉ちゃん……」
「このご時世なのにもう最悪だ。天野は事務所で揉めるし、ロジアリじゃ次郎が暴行事件起こすし」
 妹の顔がみるみる暗くなるのが分かる。
 布団にダイブして眠る前のセリフがこれでは、心配をかけてしまうのは分かっているのだけど。
「ごめん……勝手に、お姉ちゃんの可愛いカッコで浮かれて」
 自分はあまりに疲れていたのだろう。
 ベッドのそばで明里は何か言っていたらしいのだが、眠りに落ちていたせいで届かなかった。

 その時見た夢は、妙に変でロマンチックだった。
 派手な化粧をした清隆さんに、服を脱ぎなさいと強引な口調で言われた私は、汗をかきながら何故かよもぎ蒸しをやっていた。
 それからパニエでスカート部分の膨らんだ、可愛らしいセーラー服に着替えさせられたのだけど、私はわけもなくお城の中で迷子になってしまった。
 出口を探そうにも見つからない。
 どんなに走っても、薄暗い廊下と壁と、階段。
 階段をいくつも上って、息も絶え絶えになった頃、やっと天蓋付きベッドのある部屋へたどり着いた。
 すると私は、すぐさま眠りに落ちていた。
 それからしばらくして目覚めると、どこかの美男子が唇を重ねていたのだった。
 でもその王子様らしき美男子は、私の代わりにすうすうと寝息を立てて眠ってしまった。
 夢の中の私は、さながら茨の城の眠り姫だった。
 ……目覚めた理由が「トイレに行きたい」だったのが惜しかったのだが。

 実際はどうだったのかというと、ベッドのそばで座って、すうすう寝ていたのは王子様じゃなくて妹だった。
 私は苦笑いを浮かべてトイレに行った。
 ボサボサの髪を手でとかしながら戻ると、目覚めた明里は随分慌てた様子だった。
「明里、昼間から寝すぎると夜眠れなくなるぞ?」
 私は徹夜だったから仕方ないが、と言い訳して、さっきの変な夢の話をすると、明里はあからさまにオロオロしだした。
「何だ? どうした。別に私さ、明里のお姫様なんかじゃないんだしさぁ」
「い、いや、その……そう、だよね」
「あ、でもさぁ、明里が王子様で、キスしてたらそれはそれで面白いよなぁ」
「お、面白くないもん!」
 やっぱり彼女は気が動転している。
「……ごめんなさい……!」
 何がどうごめんなさいで、ばつの悪い顔をして部屋を出ていったのか、さっぱり分からない。
 私が何か鈍いだけなのだろうか。
 鈍いにしても、それを人から言われないととうとう気づけないのが、自分の悪いところである。
 隣にある明里の部屋の扉を開けようとしたが、鍵がかけられないはずなのに開かない。
「おい、明里? さっきのはただ、変な話だなぁとか思ってただけだしさ、そもそも夢だしさ。何か嫌なことっていうのはないはずなんだけど」
 返ってくるのは、「ごめんなさい」というくぐもった声だけだ。
「あの……お姉ちゃん、君が思ってるより頭悪いからさ、何も説明してくれないっていうのは素直に困るんだけど……」
 扉の向こうで、「それならいいの。私が悪いだけだから」と明里が言った。
 かすかに、嗚咽も混じっていた。
「明里……そんな、そういうのさぁ、最近の天野みたいだな……」
 こういう時、私が男だったなら。
 あまりのどんくささのせいで、明里どころか世界中の女性から嫌われていただろう。
「私が仕事ばっかしてて、家にほとんど帰ってこないから? 明里が寂しがってるのに、ほっといてたからか?」
 返事はない。
 面と向かって喋るのも苦手な方なのに、相手の表情を何となく察しなきゃならないこの状況はもっと苦手だ。
「ほっといてたのならごめん。でも、明里が嫌いでこうしてるわけじゃないんだよ? 明里が、私の変なコスプレでも何でも、褒めてくれるのはすごく嬉しいし……それは分かって」
 しばらく待ってみたが、やっぱり何も返してくれない。
 歯がゆい思いを抱いて私が自室へ戻ると、スマホに通知が入っていた。
 急いでメッセージアプリを開くと、無機質なゴシック体で刻まれた妹の言葉があった。

 ありがとう。
 お姉ちゃんは優しいね。
 誰に対しても優しい。

 私のことを許してくれて、褒めてくれてるはずなのに、胸の奥がざわついた。
 明里は、言葉とは真逆の感情を伝えようとしているのか……シクシクと泣いているキャラクターのスタンプを添えてきたのだ。
 大切な、大好きな妹なのに、悲しませてしまった自分が嫌だと感じた。
 こんな自分が男じゃなくて、明里とも赤の他人じゃなかったというのは、かすかな望みだろうか。
 それとも、深い絶望の源泉だろうか。