性的事件が多い中、僕が畏怖する少年と男への想い

僕は男の性に関した記事を書く時、普段よりも表現が過激になってしまったり、感情的な想いを記事にぶつけている事が多い。

「理性を保った言葉遣いや表現を」と自分で言っておきながら自分はこの有様。これは僕がそれだけ「男」というものに対しての想いが強すぎるのだろうと自分で分析する。

僕は少年を神と例えその神が大人になった時、人間の男になると表現する。少年の時の繊細で神秘的な姿から逞しい姿へと変わっていく様に僕は畏怖の念を抱く。故に男という存在に対して畏れもあるが神のような存在だった少年が人間の男へ姿を変え、性的行為により酷い行いをしたと聞くと僕は酷く激情してしまい、その想いを言葉に変えて表現してしまうようになった。

男は女性と違い、自由に性的な行為を何度行ったとしても普段通りに活動を続ける事が出来る。だけど女性の場合はそうもいかない。

男の気持ちや行動1つで人生が大きく変わってしまう。
時には1つの可能性を意図も簡単に消し去ろうとする事だってある。
女性自身にも出来る事は確かにあるが、その全てを女性の責任にするにはあまりにも荷が重すぎるし不平等。

その事を考えると畏れ多いがその男たちに強い言葉で非難する事がある。

女性が自らの体に宿した新しい可能性と向き合っている中、いい加減な男たちはその可能性を否定し消し去ろうとしている上に別の可能性を生み出そうとしている事が僕には理解出来ない。

男は女性と違い、行動を制限されないからといって何をしても良い訳ではない。むしろ自由に動く事が出来る意味を考えて欲しいとさえ思う。

ストレスと重圧に苦しみながら戦っている男たちは確かに凄いと僕は称賛する。ただそれと同時に女性たちだって同じようにストレスと重圧の中で戦っている。何も男だけに限った事ではない。

支配欲の成れの果て、あるいはストレスのはけ口として相手を扱うだなんて言語道断。1人の心を破壊し、1つの可能性を抹殺する。
その行いがどれだけ罪深くて酷い事か、もっと知るべきだと僕は思う。

この記事は僕が少年や男という存在を畏怖しているからこそ書いた。

清く正しく美しくとは言わないが、
もっと尊敬される存在であって欲しい
僕が神と尊敬していた少年の姿がそこにあって欲しい
男として美しい性的魅力で人々を凌駕して欲しい
僕にはそんな願いがある。

どんな時代になろうとも少年は神のままであって欲しい。
そして人間の男になってもその魅力を無くさないで欲しい。

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