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戦前日本の学校制度をおおざっぱに理解する

現在の日本の学校制度、すなわち「小学校→中学校→高等学校→大学」を基本とする学校制度は、太平洋戦争後の1947年(昭和22年)から整備されたものです。それ以前の学校制度は現在とは似て非なるものでした。この記事にたどりつくような人なら、一度は調べてみたことがあるかもしれませんが、結構複雑で完全に理解するのは難しいです。そこで、戦前日本の学校制度を、エッセンスをおさえつつ、おおざっぱにまとめてみました。

要点

・義務教育は小学校(尋常小学校)のみだった

・男女別にルートが異なり、女子はほとんど大学に入れなかった

1872年(明治5年)に学制が公布されてから、明治政府は日本全国に学校を設置していきますが、当初は小学校にすら通わない(通えない)人が珍しくありませんでした。尋常小学校の6年間が義務教育となり、かつ尋常小学校の就学率が97%を超えたのが1907年(明治40年)のことです。ちなみにこの時点で、日本に大学は3つしかありませんでした。東京帝国大学(現・東京大学)、京都帝国大学(現・京都大学)、東北帝国大学(現・東北大学)です。

文部科学省の『学制百年史』に掲載された学校系統図を見ると、学制公布以降、頻繁に学校制度に手が加えられたことが分かります。それがようやく落ち着いてきたのが明治40年代以降なので、簡単のため、この記事では「明治40年代以降~終戦」の学校制度に焦点を当てて説明を試みます。

男子エリートの場合

6年制の尋常小学校を卒業した男子には、主に次の3つの進路がありました(もちろん、尋常小学校を出てすぐに就職する子もいました)。

・中学校(主に5年制)

・高等小学校(主に2年制)

・実業学校(主に3年制)

現在の日本では、小学校卒業者は全員中学校に進学しますが、当時の中学校はいずれも入試を突破する必要があり、公立だろうと学費もかかりました。当時の中学校に通えたのは、学力だけでなく経済的にも恵まれた男子だけだったのです。その割合は時期にもよりますが、同世代の男子の2割に満たない程度でした。

大学進学を目指すなら、中学校に入るのが最初の関門でした。当時の中学校は主に5年制で、現在の中学1年~高校2年に相当するので、中学校というよりは中高一貫校をイメージした方がよいかもしれません。この中学校を卒業すると、熾烈な入試を経て高等学校に入学することができます。ここでいう高等学校に入れるのは、男子のみです。高等学校は全国に約30校あり、高等学校の卒業者は、帝国大学のいずれかに優先的に進学することができました。帝国大学入学時の競争もなくはなかったですが(とくに東京帝大や京都帝大)、高等学校に入ればどこかの帝国大学には入れる状況だったと考えると、当時の高等学校は帝国大学の教養課程(ただし男子に限る)のイメージに近かったと考えられます。

戦後の教育改革で、戦前の学校の多くは名前を変えて新しい学校になりました。戦前に中学校だった学校の多くは高等学校、しかも各地域の進学校となりました。高等学校のうち、帝国大学と強い結びつきがあった学校は旧帝国大学の教養部として大学に吸収され、それ以外の学校は地方国立大学の教養学部や文理学部などに生まれ変わりました。

女子エリートの場合

戦前の日本では、女子はごく一部の例外を除いて大学への入学が認められていませんでした。そればかりか、高等学校や中学校にも入学できませんでした。男子エリートが中学校に入学する代わりに、女子エリートに用意された進路が高等女学校です(高等小学校と実業学校は、女子でも入れました)。高等女学校は4年制または5年制で、現在で言えば中高一貫女子校のイメージに近いですが、卒業後の上級学校進学は想定されておらず、家事や裁縫といった授業が重視されるなど、いわゆる「良妻賢母」を目指すカリキュラムが敷かれていました。

日本で初めて、女子が大学に入学したのは1913年(大正2年)のことでした。東北帝国大学が独自の判断で女子の受験を認め、その結果、3人の女子が入学したのです。当時の文部省が東北帝大に「元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例これ無きことにて頗る重大なる事件」とクレームを付けたことは有名です。

師範学校と専門学校

戦前で学校教員を目指す人は、主に師範学校に進学しました。師範学校は各県に1つずつ置かれ、戦後は地方国立大学の教育学部になったところが多いです。師範学校は、高等小学校や高等女学校の卒業生にも入学資格があり、しかも学費が無料だったため、経済的またはジェンダー的に高等学校に進学できない人の貴重な教育機関としても機能しました。

師範学校の中でも格上の学校として設置されたのが、高等師範学校(男子校)と女子高等師範学校です。ちなみに、東京高等師範学校は現在の筑波大学、東京女子高等師範学校は現在のお茶の水女子大学の前身となりました。

戦前でいう専門学校・女子専門学校は、中学校・高等女学校卒業者に職業教育を施す教育機関でした。たとえば戦前の医学専門学校は、現在の医学部医学科に相当します。千葉・金沢・新潟・岡山・長崎・熊本大学の医学部は、戦前に医学専門学校から医科大学に「昇格」したという経緯から、現在では旧六医大として括られることが多いです。

また、現在の私立大学のうち、戦前から存在するものは、専門学校からスタートしたところが多いです。私立大学が大学として初めて認可されたのは1920年(大正9年)のことで、この年に慶應義塾大学・早稲田大学・明治大学・中央大学・法政大学・日本大学・同志社大学・國學院大學が誕生しました。

戦後は分かりやすくなった?

戦前にはここまでに挙げなかった学校種も多々あり、複雑に入り乱れていたことから「複線型」の学校制度と言われるのに対し、戦後の「小学校→中学校→高等学校→大学」を基本とする学校制度は「単線型」と評価されます。とは言え、戦前の中学校を彷彿とさせるような中高一貫教育は戦後、私立を中心に長らく行われていますし、最近は公立でも力を入れるようになってきました。2016年に小中一貫教育を行う義務教育学校が制度化されたり、2019年に専門職大学が開校したりしていることから、日本は再び「複線型」の教育制度になっていくのではないかとも感じます。そうした動きが、日本の未来を担う子供たちにいかなる影響を及ぼすのか、今後も注視していかなければならないでしょう。

参考文献

『学制百年史』(文部科学省)

『日本の学校制度 ~小学校を卒業したら…~』(アジア歴史資料センター)


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