引き算の重要性 〜本当に思いやるためには〜

なんだか、研究論文みたいなタイトルで恐縮だが、引き算は十分な足し算ができるからこそというnoteが思いのほか読まれているので、早速続きである引き算の重要性について述べていく。


実は、この考え方は引き算の医療という東大の医療倫理講座で出会ったものだ。

ざっくり言うと、人工呼吸器や透析(血液を濾過する装置)など、これ以上続けても患者にとって有益ではない(治療の効果がない、と置き換えてもOK)場合、治療を中止することも医療なのではないか、ということを議論するものだった。

多くの一般人が、それは治療を放棄しているのではないか、とか、医師が殺人罪に問われるのではないか、などいろいろ思うところがあるだろうが、結論から言えば医師が罪に問われることはない。現場の倫理的な判断に法は介入しないからだ。

簡単にいうと、小さな子どもが遊んでたらあるお宅の植木鉢を倒して割ってしまった。これは器物破損の罪になるのか、いやいや、本人たちが話し合って示談になっているならいいじゃないか。周りがとやかく言えるものじゃないよ、ということ。

私個人の立場から言わせてもらうと、この方針は大いに賛成であり、かつ、これからますます高齢者が増えていくことを考えると、人生の最終段階における医療はどんどん引き算にならざるを得ないと思う。

と、難しい話はここまでにして、もっと身近な話に寄せてみよう。


一番身近でわかりやすい引き算は断捨離だ。

断捨離をはじめ、ミニマリストや身軽に生きるという言葉はここ最近になって知れ渡り、いらないものを処分するツールとしてメルカリやジモティーやヤフオクなど、個人間でモノをやりとりできるアプリが爆発的に普及した。

これは暮らしにおける引き算を色濃く反映した出来事だと思う。

では、足し算はいつやってきたのか?という話になるが、これは私たちの親〜祖父祖母世代がやってきたと言える。

おじいちゃんやおばあちゃんちに行って、モノが少なくてシンプルな暮らしをしていて素敵!なんて思ったことが、ある人はどれくらいいるんだろう。

多くの高齢者のお宅にはモノが溢れている。昭和の産めや増やせや、じゃないけれど多くのモノを所有していることが豊かさの象徴だと思っている人はまだまだ多い。

私は看護師としても家事代行サービスとしても、患者さんやお客さんのお宅に伺うことがよくある。中にはミニマリストみたいな人もいるが、多くのお宅はモノでごった返している。ハイタワーのマンションでも、木造のアパートでもその景色はあんまり変わらない。

ここで問題となるのが、単純に、モノが多いと自分で管理しなくちゃいけない範囲が広くなってしまうことだ。

多くの人が仕事、会社、家庭と大事にしなくちゃいけないものがある中、最近ではオンラインサロンに入ったり、副業が解禁しつつあったり、さらに自分の中で大事にしなきゃいけないものが増えて、身の回りのモノにまで手が回らない→断捨離して管理するモノを減らそうという流れになるのは当然だと思う。


要するに、モノや相手を大事にしたいからこそ引き算するのだ。
だって、自分の時間には限りがあるから。


ここで、最初の医療の例に戻るが、引き算の医療も患者を早く逝かせるためにするものではない。ここは声を大にして伝えておく。

・患者本人が元気な時に見込みのない延命を希望していなかった
・患者の家族もこんな状態で生きていて欲しいとは思っていない、もちろん患者が亡くなるのは辛いけれど
・医療としてももう限界で改善の見込みはない

だったら、医療の中止も医療じゃないか、みんなが幸せになるための一つの提案になりうる、ということだ。

人を助けるための医療が、関わる人の幸せを壊しているなんて本末転倒だと思う。

幸せなんて言うとふわふわして聞こえるかもしれないが、これが一番しっくりくるので許して欲しい。

モノが多くて片付けや掃除にヒーヒー言ってるなら、そのモノたちを選別する必要がある。なぜなら、そのモノたちは私を幸せにするために家にやってきているはずだから。私が幸せじゃないなら、そのモノたちとお別れすることが幸せの道筋かもしれない。


と、ここまで引き算の重要性を述べてきた。
本当は次の掛け算、割り算理論まで展開したいのだけど、長くなるので今日はここまで。

ではまた。




貴重な時間を使い、最後まで記事を読んでくださりどうもありがとうございます。頂いたサポートは書籍の購入や食材など勉強代として使わせていただきます。もっとnoteを楽しんでいきます!!