名称未設定アートワーク

花逃げの町

 この町ではときどき、花が逃げる。

 山茶花の逃走は、十月はじめの週末に決行された。まだ日が昇りきる前のうす青い空の下、桃色の帯が、町のこちらがわからあちらがわへ移動してゆく。赤いものも白いものも、北の方角、町の終わりを目指して、遅れることなくはやることなく、足並みをそろえて進んだ。

 日曜の朝が来る前に、花々は町から姿を消した。

 詩人は目を覚ましてすぐ、「ある花」の名前をどうしても思い出せないことに気がついた。

 町へ出て、その姿を探してまわった。深緑の庭木が目に止まる。よく繁った葉が、路地の半分にまで影を落としていた。あの木は先日まで、薄紅の花弁を散らしていたのではなかったか? 濃厚な姿に反して、放たれる香りはとてもかすかで、清かったはずだ。
 その花の名が、どうにも思い出せないのだった。
 歩きながら五十音を声に出してみる。「か行」と「さ行」が怪しい気がする、というところまでこぎつけた。家の戸に鍵を差しこむ頃には、三文字以上の名前であったはずだ、と思えるようになっていた。靴を脱ぎ捨て、本棚に駆け寄る。植物図鑑を抜き取ると「海芋(かいう)」の頁から順に、名を読みあげていった。

 春日菫(かすがすみれ)、霞草(かすみそう)、カトレア、金空木(かなうつぎ)、蟹蝙蝠(かにこうもり)、からすのえんどう……。

 知らない名の多くあることが、かえって詩人を安堵させた。

 時間をかけて、頁(ページ)に目を通してゆく。この花か? ちがう。この樹か? ちがう。失われた花の名をみつけ出すのは、詩の書き出しをみつけることよりも、はるかにたやすいと思われた。
 「笹百合」の隣に「山茶花」という文字をみつけたとき、詩人を襲ったのは強い喪失感だった。山茶花。そうだ、あれは、山茶花だ。
 何度か声にして、確かめてみた。それでも、一度忘れてしまった自分のことを、「あちら」のほうが、完全には許してくれないような気がした。忘れる前のかれと思い出した後のかれとの間に、くろぐろとした忘却が横たわっている。
 だけど思い出せた。
 詩人は、そう、自分に言い聞かせた。正規のやりかたではなかったにしても、一度なくしてしまった記憶の場所まで、力ずくで這いもどることができたのだ。
 ただ、見つけ出した言葉が喚起する肉の感覚──目の端で捉えたつぼみの重たそうなイメージや、冷たく濡れたアスファルトにへばりつく白い花弁がちょっと透けるところ、コートの裾が枝に引っかかって生じるかすかな圧力──そういうものを縒り合せたほんものの記憶が、失われていた。

 たったそれだけのことだ、と思おうとした。少しだけ肌寒いのを我慢するときみたいに。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
note.user.nickname || note.user.urlname

よければアレしてください

ウレシ……
26
助詞を間違えたらすごい速さで関節を折りにくるタイプのライター。 略してタイプライター。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。