嶋津さんがだんだんやってくる話

去年の大晦日。もはやなにをしていたかさえ思い出せないが、とにかくツイッターを見ていた。タイムラインにポッと出た「教養」の2文字。比較的自分を教養人と思っている私はスクロールしていた指を止めた。それが「教養のエチュード賞」だった。なんだろう。見に行くと、主催の嶋津さんのアイコンやトップ画像がすでに教養のエチュード。

なんか面白そう。嶋津さんがどういう方か分からないけど、応募要項見たら字数もちょうどいい。締め切りまではあと4時間。書けそうだ。書いた。そして出した。短編小説。年の最後にこれが書けたことがわたしに自信をもたらした。やっぱ書けるよ私。そう喜んでいたら、なんと嶋津さんが応募作を1からすべて読んでそれに感想を添える。ということをやりだした。まったくもって前代未聞だ。

曲がりなりにも賞である。応募作品なんてものはそりゃ読みはするけど、それにすべて感想をもらえるなんてことはない。金輪際ない。それが賞に応募する、ということだし、応募する方もそんなこと分かり切ってやっている。それを、オール応募作品感想文。そう、添えるなんて程度ではない。嶋津さんはまあまあの分量を書いているのだ。そしてそうとう読み込んでもいるし、さらに、その人の他の記事まで読んでいる節すらある。

なぜ、そんなことをしているか、というのは嶋津さんの記事を読んでもらうことにして、これが現在vol.8まで来ている。私はこの賞の締め切りの多分1時間くらい前に応募した。いや、違った。今見たら30分前だった。だから、ここで紹介されるとしたら相当最後のほうだ。果たして、私のところへくるまで、嶋津さんのこの熱量が続くのか。普通続かない。私だったら無理だ。けどこんなことをされるくらいだから、誠実な方に違いない、そもそも文章が誠実だ。間違いなくこの調子で続くだろう。

これが、vol.1、vol.2と来ている間はよかった。けれど、ここまで来て、応募作品すべてにこれだけの文章を書いてもらうことに、だんだん恐縮している。応募作の中には練りに練られた作品も多いだろう。なのに、私ときたら大晦日の夜8時くらいにツイッターで見つけて、数時間で書いて、ろくすっぽ校正もしていない。申し訳ない。いや、でも!と私は自分に言い聞かせる。そんなものは時間じゃない。短い時間で書いたからと言って、粗末な作品なのか。そう、時間じゃない。熱量なのだ。大晦日、「教養のエチュード」に手が止まったもうひとつの理由はトップ画像のどんど火だった。それは私の住む伊勢の神宮ではすっかり見慣れた大晦日恒例のどんど火で、今思えばまさに大晦日、神宮の北御門や日除け橋の前で巨大などんど火が燃え盛っているのと同じ時間に、私もまたこの賞の応募作を書いていた。そう考えると嶋津さんのツイートに現れた炎、今神宮で燃えているであろう炎、私が書いている小説の炎が三つの火柱となり、大晦日の夜を煌々と照らしていたわけで、これなんとも小説っぽいじゃないですか。

それはともかく、実に頭の下がる嶋津さんのお返事感想文。よく書くことはよく読むこと。「読む」は受け身のようで、今回みたいに「応募」と対になることで、交信にもなるのだという発見。新しい「読み」の具現者。そんな嶋津さん、どうぞごゆっくりいらしてくださいませ。心待ちにしております。

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