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真昼の夢

有料道路の高架へ向かう信号。ふと横を見ると、老人が橋の欄干に寄りかかって、なにやら川を覗き込んでいる。空の色と同様、鼠色の上着。すっかり油の抜けた杖を片手についている。近隣の老人が散歩にでも来ているのだろう。私はブレーキペダルに足を置いたまま、この日常の光景を見ていたが、その視線に気づいた老人は私に向かって川の下を大きく指してから、両手で(こんなに大きい!)と何度も嬉しそうに幅を示した。いかにも、小学生くらいの同級生が友達にするような態度で、私もその無邪気な表現に対し、思わず(うん、へえ!そうか!)と、うなずいて見せたのだがそれからすぐ信号が青になり、車を発車させた。幸い、私の後ろに車はなく、田舎の広い道は、すぐ脇に止められる程度の場所はある。発車させて私はすぐ車を寄せ、エンジンを切って外に出た。老人の示しているものが何か気になったのだ。別に特別な川ではない。むしろ川と言うよりは水路だ。ちょっと雨が多いとすぐにあふれるような水路で、小高い山の裾から背後の広大な水田へと流れこんでいた。老人は水路を見つめたまま、私が来たことに気づいていたのか、水路の奥を指さした。
「兄ちゃん、ほれ、あれ見てみぃ」
私は老人の隣で欄干にもたれ、鼠色の水路とほぼそれと同色の水を見たが、何も見えない。
「ホレ、あそこや」
わずかに水の音がして、見るとそこに一匹のイルカがいた。体の表面がつるりと鈍い光を反射している。川から紛れ込んできたのだろうか。確かに、ここから海は遠くない。数キロ先は伊勢湾だ。そう思うと何かの間違いで紛れ込んできたとしてもあり得ない話ではない。ここの川は汽水域だ。だがイルカにしては少し体が小さい。
「鼻先が丸いから、スナメリかも知れないですね」
「ほう、兄ちゃん詳しいな」
「どうするんです?」
「どうするって、なぁ。おーい、お前さん、どうするんや~」
老人はスナメリに向かって呼びかける。
「あー、いや、あのスナメリがじゃなくて、警察とか呼んだほうが…」
「警察呼ぶくらいならシゲルちゃん呼んだほうがええやろ」
「シゲル…ちゃん?」
「わし呼んでくるから、あんたココにおってや」
そう言うと、老人は私に背を向け歩いて行ってしまった。弱った。ふんだんに時間があるわけではない。むしろ時間に追われていた。時計は10時40分を指している。取引先との約束は11時だ。5分くらいなら…そう思った瞬間、車が目の前の信号で止まった。私のときと同じだ。そうだ、誰かに替わってもらえばいいんだ。私は運転席を見た。こちらを見てくれるよう願って。だが、運転席の女性は視線を下に落としたまま一向にこちらに気づかない。そして信号は変わり、女性の運転する車は行ってしまった。今度はトラックが来たが、視線が高いせいだろうか、運転手の男性は前を見たまま私に気づきもしない。その後も何台か車が来たけれど、誰もなぜ私がこんな橋のたもとに突っ立っているのか気にもかけずに行ってしまう。当たり前と言えば当たり前だ。そうして5分が過ぎてしまった。スナメリは、ほぼ自分の幅と同じくらいの水路の中を前に行ったり後ろに戻ったり、時々、背中にある穴からぶしゅうと水煙を吹きだす。よく見ると、ヒレを傷つけているのか、少し赤い血が滲んでいるように見えた。気が急き、道の向こうを見ても、老人もシゲルちゃんも姿を見せない。シゲルちゃんは警察官なのだろうか。あるいは、退職した警察官なのだろうか、消防団員かもしれない。このへんの田舎は消防団員率が高い。だが限界だ。私は車に戻った。おっつけ、老人はシゲルちゃんを引き連れて戻ってくるだろう。それに、またあの人懐っこい老人のアピールで別の人間が手伝うかも知れない。私は自分にそう言い聞かせた。その日は一日中ニュースが気になった。「スナメリ 川」とか「スナメリ 水路」また「イルカ 水路」などと検索すると、名古屋の川にスナメリが現れた時のニュース動画がでてきた。なるほど、やはり川に迷い込んでくることがあるのだ。今日のことも、きっとこんな風に地元のニュースになるんじゃないだろうか。だがその日は何のニュースも話題もなく、翌日同じ道を通って同じ場所に車を止めた私は、昨日と同じ橋から水路を見てみた。スナメリの姿はなく、スナメリの死骸もなかった。老人もおらず、あたりは静かで、時折車が通っていく。変わらない光景。あのあと、シゲルちゃんがやってきて、うまくスナメリを海に返したのだろうか。あるいは、もしかすると捕獲したのかも知れない。シゲルちゃんが何者か聞いておけばよかった。狩猟をする人ならば、珍しさに捕獲することだってあるだろう。だが捕まえてどうする?私があそこにいたなら、ことの顛末を確認できただろうが、「ここにいてくれ」と、言った老人に背いて、それを放棄したのは私のほうだ。スナメリの行く末を案じる資格が私にあるだろうか。幸い、周辺に知人が住んでいた。私は何気ない用事で電話をし、ついでに最近集落の中でなにか変わった話題はないか聞いてみた。
「変わった話題って?」
と、尋ねる知人に、私は
「例えば、変わった生き物を捕まえたとか、そういう話」
さりげなく聞いたとしても、そうとう奇妙な問いには違いない。
「さあ、イノシシくらいしか聞かんね」
私がホッとした途端、知人が続けた
「もしかして、シゲルさんの捕まえたヤツの話?」
と、言ったのだった。知人によると、数日前、水路に落ち込んでいる子どものシカをシゲルさんが捕まえたのだそうだ。そのシカは水路のヘドロですっかり鼠色に汚れて、弱り切っていたらしい。まもなく死んでしまい。そのあと解体されて鍋にされたという話だった。肉は大変おいしくて、知人も用事がなければ自分も食べることができたのに、と悔しがっていた。
途中、何度も本当にその生き物はシカだったのか、と尋ねた。もしかすると相当語気が強かったかも知れない。知人は気後れしたように「すまんが、あんたは動物愛護者やったんか?」と言った。違う、そうじゃない。それはシカじゃないんだ。私は言いたかったが、だったら何かと言われてスナメリだとは言えなかった。あの一連の、私と老人しか見ていないものを、稀有な出来事を信じさせる方が難しいように思えた。そう考えると、シゲルという人がスナメリを捕らえて、それを子どものシカと偽り、肉を食らうことのほうが数倍簡単に思えた。なぜ、私はあの場を離れてしまったのだろう。しかし、冷静に考えてみたら、あのスナメリを捕らえたとして、何人かはスナメリの姿を見ているはずだ。ゼロという訳にはいかないだろう。私はあの日のことを思い返してみた。あの老人のふるまい、水路の中のスナメリ、吹き上がる水煙。曇天、鉛色の景色。そもそも、あのあたりは、田んぼへ潮気の水を入れないよう、潮の満ち引きに応じて堰が上下する。だから川からさらに水路へ入って来るには堰を越えなくてはならない。いったい、堰をどうやって超えてきたのか。私が見たのは本当にスナメリだったのか、もしかすると、鼠色の小鹿だったのか。だったらあの背中の穴から噴きあがったあれはなんだったのか。老人と私が見ていたものは同じものだったのか。知人との電話の数日後、私はまたあの橋へ行ってみた。何かの痕跡があるような気がしたのだ。水路を覗くと、大きな鯉が何匹も群れになって泳いでいる。欄干から身を乗り出していると、背中から声がかかった。
「こないだそこにシカが落ちてたんやで」
振り向くと、農作業姿の老婆がいる。
「もう足も折れててな、ワシも引き上げる見とったやけどな…かわいそうに」
「え、見てたんですか?」
「そうや。足引きずって血も滲んでてな、ああなるともう野生では生きてけんやろな」
足…。
「それ、どの足が折れてたか、覚えてますか?」
私の問いに、老婆は面食らったようだった。そんなものは覚えていない。と、腰に手を添えたまま歩いて行ってしまった。私はまだしばらく水路を見ていた。乾いたコンクリートの擁壁、底のヘドロから生えだした水草の間を黒い鯉が優雅に泳いでいた。


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