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義理チョコはいらない

【小説】

「最近の会社じゃ、CCで全社員に『義理チョコ禁止令』が発布されるんですよ」

 甘さと苦さと熱気がうずまくデパートのチョコレート売り場で、後輩が言った。わたしは薄目で見ていたピエールエルメの値札から目を離し、後輩の顔をまじまじと覗き込む。そういえば去年は勤めていた部署の全員に義理チョコを配り、それがコンビニチョコであるという指摘を受けて笑い者にされたのをおぼえている。わたしはなにかと間違えては、笑い者にされる人生を送ってきた。

 いろいろな事情もあって、会社を辞めてアパートに引きこもっていたわたしを外に引きずり出してきたのは、社会人二年目の後輩だ。非社会人になって一年目のわたしは、駅前の喫茶店でお茶でもするつもりでボサボサの髪のまま電車に押し込まれ、休日のデパートで棚に並ぶチョコレートを見ている。アパートからデパートへ、たった一文字の違いで、居心地の悪いことこの上ない。

「義理チョコなんてトラブルの元ですよ、勘違いするバカもいるし、禁止して正解だと思いますね」
「じゃあなんでここに来たの」
「本命を買うんです」

 後輩はまん丸な目でわたしを見つめる。わたしは後輩から顔をそらして、ためいきをつく。

「推してる俳優? 誰だっけ、ほら、あのキャラやってた」
「ああ、あれはもう推してないです、事務所がカスなんで」

 じゃあ誰にあげるんだよ。わたしは口の中でモゴモゴと愚痴を噛み殺した。わたしは後輩のこういうところが苦手だ。好きだと言い出したときは気が狂ったようになり、永遠に推し続けるように見えたのに、なにかちょっと気に入らないことがあると、すっと冷めてしまう。わたしみたいに、いつまでもウジウジと一人の人間のことを好きで居続けている人間から見ると、うらやましくて仕方がない。

「本命か、彼氏できたの?」
「え?いませんけど?」
「じゃあ、好きな人ができた」
「好きな人はいますよ」

 なんだかちょっと噛み合わない。わたしはちょっと自分がイライラしているのがわかった。香水やシャンプーの甘い香り、ま新しいコートを来た「ちゃんとした」女たちの群れ。ボサボサの髪でなにもしていないわたしを恥ずかしくさせる空間。後輩は小さくて、丸くて、おしゃれで可愛い。このチョコレート売り場にふさわしい人間だ。わたしはふさわしくない。

 後輩とは、文芸部の部室で一度だけ手をつないだことがある。一緒に窓の外の景色を見ていたら涙が出てきて、ティッシュをとりにいこうと手を離した。それきり。わたしは不適格で、不合格で、不釣合いだ。チョコレートをあげたい相手はいても、どのチョコレートを買えばいいのかもわからない。

「そういえば去年、くれたよね、チョコ」
「はい、お礼の手紙をもらったときは爆笑しました」

 ホワイトデーに何を返したらいいのか、一向にわからず、わたしはお礼の手紙を書いて後輩に渡した。そうか、爆笑されたのか。たしかにそのあとも何度か会ったときに笑いながら話をされた気がする。

 後輩はレジを済ませると、ケーキの美味しい地下街の喫茶店へとわたしを連れて行った。パステルカラーのホールケーキがガラスケースに並んでいる。入り口への列も廊下のはるか向こうまで並んでいる。

 白い丸椅子に隣り合わせに座ると、後輩はラッピングされた箱を袋から取り出して、わたしに差し出した。

「チョコ食べて元気出してくださいね。仕事なんて辞めたいときに辞めて、やりたいときにやればいいんですから」
「元気なさそうに見える?」
「そりゃあもう」
「ありがとう」

 チョコレートの箱を受け取り、わたしはいろんなことを思い出して寂しくなる。かつてのわたしは元気だった、自分で何かを決めて、自分で何もかも進めて、自分で責任を取って笑って次へ進むことができた。社会人になったら、何も決められない。何も進められない。責任は上司が取る、じゃあわたしは?

 どこにも進めない。

 会社を辞めて、バイトを転々として、どこでも続かず、結局はみじめな気持ちを抱えてベッドで毛布にくるまるしかなかった。今日だって、後輩があの薄暗いアパートから連れ出してくれなければ、こんな白いペンキで塗られたカントリースタイルのカフェなんて来なかった。

「義理チョコ、やめたんじゃなかったの」
「義理じゃないんで」

 どうも話が噛み合わない。わたしはそわそわしながら、列が進むのを待った。

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