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いざ、桶狭間へ

 父が入院したとの突然の連絡がありました。家の庭から用水路に頭から落ちて救急車で病院へ運ばれたと言う。意味がわからない。想像ができない。なぜそんなことが起こるのか、実家がそんな危険な場所かと想定もしたことがありませんでした。

 実家と言っても私が生まれ育った場所ではなく、両親は仕事を引退し、母親の生まれ育った土地に家を建てて移住したのでした。確かに実家は少し坂を上がったところにあり、その下には農業用の用水路に川からの冷たい水が常に流れている。水はいつも澄んでいて、子供の頃にはここにタガメや、ミズスマシがいるのをずっと観察したものでした。

 いやいや、そんな悠長なことを思い出しているわけにはいきませんでした。父は今年91歳。今は歩くのも不自由で、外出時には車椅子が必要なのです。2メートル近くのコンクリートの壁から30センチ以上はある深さの用水路に頭から落ちたら間違いなく頭を強く打つし、溺れるはずです。

 だが母の話では父は生きているという。そして入院したという。どうしてかはわかりませんが、母は地元に住む兄や、妹よりも先に、取り急ぎ私に電話をしたと言って、少し落ち着かない様子で電話を切りました。

 とは言っても今この状況で大きな病院へ入院するということは、ただでさえ忙しい病院業務や関係者に、間違いなく迷惑をかけてしまう行為なのではないかと、申し訳ない気持ちになってしまいました。

 当然ですが、母も入院した父に面会することもできませんでした。母の話では、背骨が折れているという。また骨折は3箇所もあるという。でも、父がどのような状態なのか、母も詳しく理解していないようで、当然ながら私も理解していませんでした。

 さてどうするか。私は考えていました。実家に行ったからといって、母が父に会えないのに、私は病院には入れそうもない。実家に行くことは母の安心にはなるだろうが、世界中が外出自粛の中、長距離移動はあり得るのか。もちろん感染リスクが高まります。色々考え、まずは父が退院するのを待とうということになりました。

 病状をはっきり理解しないまま、父は入院をしました。細かいことを理解していない母に代わって、看護師である妹が仕事を休んで病院に行ってくれました。この時ほど、兄妹に病院関係者がいることを頼もしく思ったこともありません。父の容体は思っているほど悪くなく、頭は打っているのに、脳には問題もなく、3箇所の骨折と打撲だと告げられ、父が退院をし、十分な回復を待ってから、実家に行くことになりました。なにせ頭を強く打っています。高齢ですので心配でした。 ところが1週間ほどして、父はあっけらかんと退院をしたのでした。

 ちょうどその頃、私の自転車が壊れていました。スポークが3本も折れたのです。普通の自転車ならスポークはどこにでも売っているのですが、私の自転車は12インチ。幼児用のタイヤなのです。フライトマイレージの交換商品としてもらったもので、かなり特殊な自転車でした。そんなスポークは世界最大の通販でさえ、どこにも売っていないのです。

 そこで、長いスポークを買って、それをカットしてねじ切りしてもらえる業者を探していました。機械があればたいした作業でもないのですが、東京でそんなことをする業者が見つけられませんでした。そして、やっと見つけた自転車屋さんが桶狭間にあったのです。そうだ、この自転車屋さんに寄りながら実家に行こうと思ったのでした。

 桶狭間は、名古屋市と豊明市にまたがって存在する場所です。桶狭間の自転車やさんは、駅から20分くらい歩いた街道沿いの大型ディスカウントショップの近くにありました。暑い日でしたのでたどり着くまで大変でしたが、なぜか故障していた自転車が直せるということと、久しぶりに両親に会えるという嬉しさの方が強くて、足取りは軽いものでした。

 たどり着いたのは本屋さんでした。看板はXX書店と消えかけた文字で書いてありました。でもドアを開けると修理仕掛けの自転車がたくさんあります。自転車屋さんは本屋さんでした。なぜか本屋の中に自転車屋さんがありました。というよりも自転車屋さんの中に本屋さんがあると言った方が正しいのかもしれませんが、ともかくありえない組み合わせの業種が一つの店に共存していました。

 私は訪問時間まで詳細に予約を入れていましたので、本屋さんに自転車屋さんがいないか尋ねると、間もなく愛想とは縁のなさそうな人が現れました。私は買ってきたスポークを渡し、彼はすぐに作業に取り掛かりました。Eメールのやり取りでは、完全なものができるかどうかは保証しないと言われていたため、3本で良かったものを6本お願いするとも伝えていました。それなのに、これ6本とも大丈夫ですか?と聞いたら、ああ、問題ないよ。と、今度は簡単な作業だという風なことを言うのです。自信があるのかないのかどっちなんだ、と突っ込みかけましたが、丁重な言葉で作業をお願いし、あっという間に12インチのスポークが出来上がりました。多分世の中にはここにしかないだろう特注のスポークでした。(だからどうだというのだ。)

 私の自転車のスポークが折れたのは後ろでした。後ろにはドラムブレーキがついており、これが邪魔をして簡単に取り付けることはできないと予測もしていましたので、その取り付け方を機嫌を損ねないような言い方で聞いてみました。すると、「ブレーキを外すには自転車屋しか持っていない特殊な工具が必要で、それを貸してくれと言っても絶対に貸さない。」と、貸して欲しいとも言っていないのに、鋭い目でこちらを見ました。

 あなたはどこから来たのか?と聞かれ、東京と言うのもどうかと考え、名古屋の方からと言いました。ルートとしては名古屋経由でした。ですがどう考えても私の言葉は名古屋弁ではありませんでしたので、違うことに気がついていたのかもしれません。

 自転車屋さんは私をまたじろっと見てこう言いました。「これは子供用の自転車だろ、先日子供の自転車の事故が2件あったのだ」と。要するに素人がブレーキの部品を触ることで、もし事故に繋がるかもしれないことを考えての苦言でした。

 もちろんです。何も貸して欲しいとは言いません。これだけで大丈夫ですとは言いましたが、これは自分の自転車だから自分の責任で修理して乗っているので....とも言い切れなく、まだ言い足りないのか、私を諌める言葉が続きました。

 この人には自転車を提供することに信念があるのだと感じました。そんな人には学ぶべきです。久しぶりに赤の他人に諌められる自分を小さく感じました。「諌める」とは、辞書によると、目上の人に不正や欠点を改めるよう忠告するという意味です。諫言(かんげん)するとも言います。 自転車屋の彼は、私よりもどう見ても一回りは若かったので、その意味では彼は私に対する礼を尽くしたのだと考えています。

 実は私が桶狭間に向かったもう一つの理由は、父が大河ドラマ好きで、歴史のことをよく知っており、土産話にするためでした。私の中で父のことと桶狭間の戦いが重なっていました。少し気持ちが高ぶっていたのかもしれませんが、次にどう動けば良いのか、冷静に判断をしていました。

 そう、桶狭間に向かう信長の気分でした。3千人の兵しかいない信長には、2万5千人の今川勢にどう立ち向かうのか、ずっと考えていたはずです。誰にも意見を求めず、自らの判断を基準としました。私はできたばかりのピカピカのスポークをリュックに忍ばせて、桶狭間古戦場跡に向かいました。

 最初に到達したのは、豊明市側にある桶狭間古戦場趾という石碑が書かれた小さな公園でした。この地点で何があったかは不明ですが、この辺り一帯で激しい戦いが行われたのでしょう。今川軍と織田軍の進路もわかりやすい図で丁寧に描かれていました。

 すでに周囲の城や砦は今川軍の味方として徳川家康の力を借りて占拠する中、東から今川軍、そして北の名古屋方面から織田軍がやってくる。ぶつかる地点が桶狭間でした。織田軍の作戦は2万5千もの兵を一箇所に集めずに、少ない兵になっている今川義元を撃つということでした。とは言っても今川義元を守る兵は2千5百、織田軍は8百と言われています。

 そして少し離れた名古屋市側に、当時足軽たちがそうしたように歩いて移動してみました。すでに汗だくです。鎧があったら脱ぎ捨てるでしょう。桶狭間と言っても点ではなく、かなり広い範囲だと感じました。ここも小さな広場です。

 当時は今川軍が昼飯をとっていたところに雨が降ってきたようで、全軍が無防備であったところに、少数の織田軍が現れたのがここだったようで、「義元公首洗いの泉」という立て札がありました。泉には水が溢れており、その周りを子供達が駆け回っていました。そしてたった2時間で、戦国七雄であった今川義元は下克上の世から姿を消したのでした。大河ドラマでは毛利新助が空中に飛び上がって義元を討ち取ったように見せていましたが、漫画のようにはいきません。実際には義元の後ろから組みついて首をとったそうです。

 泉を覗き込むと水を通して過去が見えるような気がしました。今でも湧いているのか、水を循環させているのか、それは不明でした。

下克上の世の中、信長にとって奇跡の勝ち戦になり、尾張の一武将から、東の駿河や遠江までの天下統一をほぼ手中に収めることになっていきます。当時の戦時ルールにおいて、ランチタイムに急襲して良いのかは知りませんが、「泣くのなら殺してしまえホトトギス」のうつけ者ですから、なんでもしたのでしょう。

戦国乱世の時代に敵対していた信長と義元ですが、この公園では仲良く二人の銅像が並んでいました。義元は海道一の弓取りと言われていたためか弓を携えています。(海道とは東海道のことで、弓取りとは武将という意味)信長は長槍です。この長槍で義元は討ち取られたわけです。

この二人の銅像を後ろから眺めると、彼らが共に古い歴史を壊し、新しい日本をつくろうとして想像もつかない未来を見つめている。そんな気がしました。

 余談ではありますがその後、顔や身体にあざはできていましたが、元気になった父とも再会ができ、車椅子で明智光秀の大河ドラマ館にも連れて行きました。父は何手も先を読む将棋にも強く、歴史上の人物のことには詳しいのに、自分が転落したことを覚えていませんでした。記憶しなくて良いこともあるのです。

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