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【小説】アネシカルリサーチ シークレットクラブと倶利伽羅のカルマ 21

 それから先のことは、よく覚えていない。血で真っ赤に染まったソファを眺めながら、おれはうつ伏せになって倒れた。視界がぼんやりとして段々と狭くなっていった。
 しばらくすると、瀬戸熊がおれを担いで、薄暗い階段をとんでもないスピードで駆け上がっていた。ずっと大声でおれに話しかけていたが、最後まで、何と言っているのか分からなかった。
 ギリギリで繋ぎ止めていた意識がなくなり、目の前が真っ暗な闇に包まれた。

 目を覚ますと、そこは集中治療室だった。医師や看護師が周りに集まって、こちらに向けて喋っている。
「聞こえますか、猿川さん」
 おれは返事をしようとしたが、声が出なかった。身体を動かそうとしても、無駄だった。弱弱しく瞬きをするので、精一杯だった。
 おれは自分の置かれている状況を少しずつ理解していった。黒木による銃撃で、おれの脊髄は損傷した。現代の医療では治療が困難で、このまま一生、瞬きをする以外の活動はできないらしい。あらゆる感覚が遮断され、ただ生命を維持している状態――おれにとっては、それは死と同義であった。
 瀬戸熊と玲香、それに典獄寮のみんなが集中治療室の外に集まっていた。おれは村田やみなみが無事だったことに安堵したが、その感情を伝えることは出来なかった。面倒なことに巻き込んでしまって、すまなかった。たった一言でいいから、謝りたかった。哀れむようなみんなの表情をおれは見続けた。そして夜になり、彼らは去っていった。残された静寂の時間は、死にたいと思うには十分な絶望をおれに与えた。
 人間は、何もしないことに耐えられない。死の淵に立っているおれもそうだった。無限に続くかと思える夜を耐える為、おれはひたすらに思考を巡らせた。それだけがおれに残された、唯一の人間的な行為だった。
 楽しかった思い出を一通り愛でたあと、おれは自分の身に起きた事件を見つめなおすことにした。悪夢のような出来事だったが、振り返らずにはいられなかった。
 一連に失踪事件は全て、黒木貴史によって計画されたものだった。やつは言葉巧みに人々を誘導し、意のままに操った。三年間で、何十人もの学生が犠牲になった。やつの目的は、異端な妄想を現実にすることだった。埋められない才能という壁を、倫理と道徳を棄てることで、越えようとしたのだ。
 考えているうちに、おれは疑問を持った。今、おれが置かれているこの状況について、論理的に説明できないことがいくつも存在した。
 瞼しか動かせないおれの状態は、確かに敗北を意味するが、それは黒木が望んだことなのだろうか。奴の口ぶりからすると、伯父さんに深い恨みを持っていたのは間違いない。ただそれは、甥であるおれに銃を向けることで、解消できるようなものだったのだろうか?黒木は最後に、実験体としてのおれの肉体が目的だと口にした。その捕獲に、やつは失敗している。もしおれのことを殺したいのならば、迷わず頭か心臓を狙うはずだ。だが黒木は、急所をわざと外している――。考えれば考えるほど、新たな疑問が湧いて来た。そもそも、もっと他に別の方法があったのではないか。おれを捕まえたいのなら――。
 おれはそこで、黒木の研究室を出た際に大男に襲われたことを思い出した。もしかすると、あれは黒木の差し金だったのかもしれない。しかし、それにしては不可解な点もある。あの男は、明らかに危害を加えようとしていた。捕まえようとしているようには見えなかった。また、もし捕獲に成功したとしても、あの時点で黒木の研究室はエクレシアに押さえられていたはずだ。一体どこで、人体実験をするつもりだったのだろうか。

 思考が頭をぐるぐると回っていると、遠くから足音が聞こえた。交代の時間になったのか、新しい看護師が部屋の中へ入ってきた。看護師はおれのベッドに近づくと、耳元でこう囁いた。
「移送します」
 随分と長い間、おれは薄暗い病院の中を彷徨った。天井を見上げることしかできないので、どこに運ばれているのかは分からなかった。時間が経つにつれて、おれは背筋が凍り付く感覚を思い出していった。
 俺が運ばれたのは、手術室と思われる部屋だった。手術着を纏った大勢の人間に、おれは囲まれた。その中の一人がおれに声をかけた。
「気分はどうだい和馬君」
 マスク越しでもよく分かる。男の細い目は笑っていた。
「ぼくが誰だか分かるかい?」
 男はマスクを外して、おれの目をまっすぐ見た。おれの記憶の底から、男の顔が浮かび上がってきた。確か、倶利伽羅の試験を受けた時の――。
「ぼくが君の面接を担当したのは、偶然なのか、それとも必然なのか」
 男が合図をすると、スピーカーから大きな音が流れた。暗い地下で流れていた、美しくて悲しい旋律――チャイコフスキーだ。
「支援センターで会った時は、まったく気づくそぶりがなかったね。まあ、それも無理はないか」
 男はぶつぶつと呟きながら、楽しそうに準備を進めた。おれを、切り刻むための準備を。
「今頃、エクレシアや警察の連中は、ありもしない証拠を探して、あのうす汚い部屋を血眼で調べているだろうね。時間は十分に稼げるだろう。ぼくたちはゆっくり、ここで楽しもうね」
 壊れてしまった身体は、ピクリとも動かなかった。
「黒木はどうしようもない愚か者だったが、最後の最後で役に立った。知っているかい?デスアンドタックスは、目的のためならばどんな犠牲も厭わない。それが身内であってもね」
 おれは自分の身に起こる更なる悲劇を、じっと見つめることしかできなかった。男は大声で周りに指示を出した。
「これまでとは比べ物にならないほど貴重な実験体だ。なにせ、あの猿川忠人の血縁者だからな。余すところなく、肉体のすべてを、最大限に活用しよう」
 おれの行動は全て、この男に操られていたのか――。恐怖のあまり、微かにしか動かないはずの瞼が、激しい痙攣を起こした。

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