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葉室麟さん最後の長編歴史小説『星と龍』が待望の文庫化! 東京大学史料編纂所・本郷和人教授による文庫版解説を特別公開

「この世の正義は、砂上の楼閣か――」
悪党と呼ばれる一族に生まれながら、正義を心の拠り所とする楠木正成は、天皇中心の世の中を築くために奔走する。しかし、夢にまで見た後醍醐天皇の親政が始まると、次第に自らの理想と現実との隔たりに懊悩することとなり……。
 不世出の猛将・楠木正成の生き様を描いた、葉室麟さんの『星と龍』が文庫版として、2022年10月7日(金)に発売となりました。惜しくも絶筆となってしまった著者最後の長編歴史小説です。
 刊行を記念して、東京大学史料編纂所・本郷和人教授による文庫版解説を特別公開いたします。葉室さんが描かれた小説の歴史的背景を、学術的な面から語ってくださいました。

葉室麟著『星と龍』(朝日文庫)

 戦前、楠木正成と後醍醐天皇は、日本史で五指に入るヒーローであった。とくに楠木正成は水戸学がその生涯を賞揚したから、水戸学に強い影響を受けた幕末の志士、明治の元勲たちは「われ楠木正成たらん」と願った。実証的な研究が不足していた時代であるからかえって、1人1人が「おれの楠木正成」像を作り上げ、行動の指針としたのである。

 それでも明治初年には、議論があり得た。福沢諭吉は『学問のすゝめ』で一身独立して一国独立す、国民1人1人が学問して覚醒し、それを基礎として国家が自立することこそ、列強に取り囲まれた日本の、喫緊の急務であると説いた。同時にこの大目的から見たら、君に忠を尽くさんとむやみに腹を切るのは、命の使いどころを間違っている、主人に申し訳ないと首をくくる権助と変わらぬ、と指摘した。当時、君に忠を尽くした代表は楠木正成であったから、福沢は大楠公を権助と同じというか、との「楠公権助論」が広まって福沢は批判に晒されたが、もとより福沢に楠木正成を貶めるつもりなどないことが理解されると誹謗中傷は静まった。識者の意見に耳を傾けるという姿勢は、確かにあったのである。

 ところが天皇中心の国家作りが進み、2度の対外戦争に勝利し、軍部の発言力が高まると、もはや後醍醐天皇・楠木正成への尊崇は広く浸透して社会に定着し、うかつな異論を述べることを許さなくなった。実業家で政治家の中島久万吉は大正10年、ある折に足利尊氏と室町時代は再評価に値する、と感想文を書いた。その記事が雑誌に掲載されてから13年後の昭和9年、中島の感想文は議会で問題になる。当時中島は商工大臣を務めていたが、逆賊たる尊氏を評価するような者は大臣の職にふさわしくないと多くの議員・右翼勢力から厳しく糾弾され、大臣を辞職せざるを得なかった。

 戦後になると天皇崇敬の精神を軸とする歴史観、皇国史観は排された。だが、子どもの頃に受けた教育は、そう簡単には覆らない。唯物史観(マルクス主義歴史観)を奉じる歴史学者すら、実は感情的には後醍醐天皇に親近感を覚えているのでは、と思いたくなるような、妙な説明をしていることがしばしば見受けられる。日本を代表する知性といわれた小林秀雄も、日本史には3つの光がある。1つは大化の改新であり、1つは建武の新政であり、1つは明治維新である、というように、皇国史観にどっぷり浸かった歴史解釈を公言していた。専門の歴史研究者は流石にそういうわけにはいかず、天皇個人というよりは、天皇が主導した建武の新政に着目し、3年もたずに崩壊したにもかかわらず、それは革新的な理念をもっていた、と評価した。

 楠木正成については、改めてどう手を出したら良いのかわからず、新しい研究は本質的には進まなかったように思われる。ただし、出自については新説が出ていて、楠木氏がもともと駿河の御家人であり、ゆえあって本拠を河内に移したこと、得宗被官であったこと、正成が幕府の命を受けて有力武家を次々と倒す功績を挙げていること、などが明らかになった。こうした理解は本書でも採用されている。だが、全体的に見て、正成の知名度は戦前に比べると(当時は国民みなが知っていた)、驚くほど低下した、と言わざるを得ない。

 だが、それでも「忠臣・正成」への敬慕は水面下で脈々と受けつがれていたようだ。平成9年(1997年)に放映されたNHKの歴史番組『堂々日本史』は、悪党としての楠木正成を取り上げた。この悪党というのは後世のような「悪い奴」という意味ではない。戦後に研究対象として案出された社会的存在である。幕府の御家人ではないが、折から盛んになってきた商業活動に従事し、富裕となった武士階層を指す。主に畿内で活動した彼らは、幕府の指令を受け付けぬ故に悪党と呼ばれた。

 この番組にはコメンテーターとして、正成研究の第一人者であったS教授が出演した。ところが番組が放送されるや、大楠公を悪党とは何ごとか、との批判が沸き起こったのである。この悪党とはあくまでも研究上の概念だ、正成を貶めるつもりは毛頭ない、と陳弁してもムダであった。終戦から50年。信じられないような話だが、正成はある種の夢幻の物語の中にまだ生きていたのである。S先生は辟易し、このあとテレビ番組のオファーを一切受けなくなったと聞いている。こうした状況下、まっすぐに楠木正成と後醍醐天皇を描かんとした葉室麟の覚悟は、まことに尊敬に値する。

 本来、歴史研究者と小説家の仕事は性格を根本的に異にする。歴史研究者は事件や人物の輪郭を、外側から描写する。事件Aと事件Bのあいだに因果関係を見いだし、その脈絡を整理しつつ、歴史事実(史実)を踏まえた歴史像(史像)を復元していこうとする。小説家はズバリと事件や人物の内面に切り込む。実証の重視を唱えて史実と史実の間を右往左往する歴史研究者を尻目に、伸びやかに想像力の羽を広げていく。ただし、想像力は野放図に展開すればいいというものでは決してない。読者の共感を得るだけの説得力が必要になる。研究者の解析を凌駕する説得力と、それを支える時代を見通す観察力。葉室麟こそは、その両方を併せ持った作家であった。

 小説家は、くり返すが、歴史研究の瑣事にこだわる必要などない。だが少しだけ、研究成果も書いておこう。楠木正成については、前述のように、本格的な研究の前進は今のところ見当たらない。後醍醐天皇に関しては、私が新しい像を提案している。

 1221年、後鳥羽上皇は幕府討伐を訴えて兵を起こしたが、関東勢の攻勢を受けて敗れ去った。承久の乱である。敗北後、権威に傷のついた朝廷には、以前ほど円滑には税が納入されなくなった。そこで朝廷は「徳政」の名のもとに社会と向き合い、そこで生起する様々な混乱を静める努力を開始した。そうした社会への働きかけの最前線に立ったのが、上皇である。上皇は蔵人・弁官、すなわち朝廷の実務を担う官僚たちのサポートを得て、徳政を推進していった。この努力は広く人々の支持を得ることに成功した。

 上皇のもう1つの課題は、幕府とうまく交渉することであった。第2の後鳥羽上皇の出現を恐れた幕府は、京都に六波羅探題を置き、朝廷を監視した。また皇統を大覚寺統と持明院統の2つに分割し、互いに牽制し合うように仕向けた。このため、両統の当主であるそれぞれの上皇は、次代の天皇を自陣営から出すべく、幕府の後援を求めた。武家の助力なしには、天皇は天皇たり得なかった。幕府との交渉が何より重視された所以である。

 この2つの課題をもっともよく遂行したのが、後醍醐天皇の父、後宇多上皇であった。上皇は有能な実務貴族を抜擢し、幕府と融和的な雰囲気を醸成した。これに比して、この方法論に完全に背を向けたのが後醍醐天皇であった。天皇は即位するやいなや、倒幕の意志を表明したようだ。常識的で有能な実務貴族たちは、幕府の処罰を恐れて天皇から遠ざかった。天皇の傍らに残ったのは、それまでの上皇が用いなかった人々だった。いわばはみ出し者の貴族を率いて、倒幕に突き進む異端の天皇。それが後醍醐天皇だった。

 悪党の世をつくる、と葉室・正成は言う。その彼が、建武政権すなわち後醍醐天皇とどう関係を築き、また別れを決意するのか。それを読めぬのは本当に残念である。だが葉室麟という偉大な作家の絶筆として、本作は誠にふさわしいとも言える。星を仰ぎ見る龍とは、楠木正成であると同時に葉室麟その人である。綺羅星の如き、すばらしい物語の数々をありがとう。葉室さんに心からの感謝を述べて筆を擱く。


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