見出し画像

「まず認知症を受け入れる」 医師である作家が描く認知症介護小説『老父よ、帰れ』、著者・久坂部羊さんのエッセイ

 久坂部羊さんの『老父よ、帰れ』(朝日文庫)が刊行されました。高齢者医療をよく知る医師で作家の久坂部羊さんによる、いま読んでおきたい「認知症介護」小説です。認知症の父を施設から引き取り、家族の協力を得て自宅介護をはじめた息子はつぎつぎと出来事にぶつかります。切実でままならない家族のひきこもごも……。著者が「一冊の本」に寄稿してくださった巻頭随筆を掲載します。

久坂部羊著『老父よ、帰れ』(朝日文庫)

他人ひとごとではない認知症

夢の新薬登場か

 今年1月、アルツハイマー病の新薬がアメリカで承認されたというニュースが、新聞各紙を賑わせた。日本の製薬会社も関わっており、同社は日本国内での製造販売の承認を厚労省に申請したという。

 すわ、夢の新薬登場かと思いきや、報道をよく読むと、アメリカでの承認は「迅速承認」というもので、これは深刻な病気の薬を早く実用化するため、効果が予測されれば暫定的に使用を認めるという制度で、車の免許でいえば“仮免”のようなものらしい。

 承認の根拠は症状の進行を7カ月半遅らせるというもので、約1800人の患者に18カ月間投与したところ、認知症の程度を評価するスコアの悪化が27パーセント抑えられたという。

 これを見て、私は首を傾げざるを得なかった。そもそも、認知症の悪化のスピードは人によってちがうのに、何をもって悪化が抑えられたと言えるのか。もともと進行の緩やかな人は、薬をのまなくてもスコアの悪化は少ないだろう。だから大規模治験で傾向を見るのだと言うかもしれないが、評価の対象となるスコア自体が実に曖昧だ。私もかつてデイサービスのクリニックに勤務していたとき、HDS-R(長谷川式認知症スケール)で患者さんの認知症を診断したが、初診時には中等度の認知症だった人が、半年後の再評価で点数がアップすることがあった。初対面のときは緊張していたが、半年たって私に対する緊張が緩んで、リラックスしたためだ。質問者の態度や口調によっても点数は変わるし、もともと緊張しやすい性格か否かでも点数はちがってくる。徘徊や粗相、介護への抵抗など、いろいろ問題となる認知症の周辺症状と、スコアの相関性も必ずしも証明されていない。

 なおかつ、この薬は認知症の症状を治すものではなく、単に進行を遅くするというものだ。同様の薬は何年も前から日本でも使われていて、私も多くの患者さんに処方したが、たまに家族から、「この薬は効いてません」と言われることがあった。そんなときにはこう答える。「いや、効いてますよ。のんでなかったらもっと悪くなってましたから」――。ここに医療のズルさがある。

 今回、申請が出された薬も、同様の効果だから、服用しても薬が効いたという実感はなかなか得られないだろう。その一方で、この薬には脳内の浮腫や微小出血などの副作用も報告されている。

 そんな問題のある“仮免”みたいな薬の値段が、1人あたり年間350万円になるという。国内に数十万から百万人いるとされるアルツハイマー病の患者さんの多くが服用を求めれば、医療費が跳ね上がるのは火を見るより明らかだ。

 新薬の悪口ばかり書いたが、製薬会社は莫大な研究費を投じて、懸命に研究開発に取り組んでいるのだし、多くの認知症の患者さんと家族が新しい治療を熱望しているのも事実だ。だから、真に有効な薬が待ち望まれる。しかし、くれぐれも都合のいい宣伝と、過大な期待は慎むべきだろう。

認知症を受け入れる

 有効な治療法がない今、認知症はどのように対処すればいいのか。

 秘訣はズバリ、認知症を受け入れることである。

 周辺症状を悪化させて、介護に苦しんでいる家族の多くは、認知症を治そうとか、これ以上悪くしたくないとかいう思いに囚われている。それが本人に強いストレスとなり、症状を悪化させてしまう。逆に、認知症になればこんなものと受け入れると、本人も楽になり、ストレスがあるときよりは穏やかになる。

 認知症にかぎらず、高齢者の介護が自宅でできなくなると、施設に預けるということになる。施設にお願いすれば安心かと言えば、必ずしもそうではない。私は現場でいくつもの特別養護老人ホームや介護付有料老人ホームを見てきたが、入所者の満足度には大きな開きがあった。ていねいで温かい介護をしている施設もあれば、ほったらかし、粗雑な扱い、あるいは虐待ギリギリの対応をする施設もある。

 介護状況が同じでも、入居者の満足度は異なる。同じ食事でも、「ここの食事はまずい」と顔をしかめる人もいれば、「ここのご飯はおいしい」と喜ぶ人もいた。前者はそれまで裕福な暮らしで美味しいものを食べてきた人で、後者はつましい生活であまり贅沢をしてこなかった人だ。

 人それぞれの人生背景があるから、すべての人に喜んでもらえる施設はむずかしい。さらには施設側は人手不足のところが多く、介護職の全員が専門的な知識を持ち、技術を身につけた親切で優しくて忍耐強い人ばかりとはかぎらない(むしろそういう人は少数)。施設側が「だれもが安心できる介護」とか「その人らしい暮らしを守る」などと言うのは、預ける家族に見える部分だけで、見えないところでどんなことが行われているか、保証のかぎりではない。そんな実態を知れば、施設に預けた親が亡くなったあと、家で面倒を見ればよかったと悔やむ家族も少なくないようだ。

老親を引き取れるか

 今回、文庫化された拙作『老父よ、帰れ』は、親孝行に目覚めた男性が、施設に預けた認知症の父親を自宅マンションに引き取る顛末を、ドタバタ喜劇風に描いたものだ。私自身、寝たきりから認知症になった父を実家から自宅に引き取った経験があり、導尿からおむつ交換、果ては摘便までやったが、妻の協力もあり、苦労を感じたことはほとんどなかった。いや、苦労はあったが、いずれ小説のネタになると思うと、イヤさも半減した。これはモノ書きの特権で、ほかにもたとえばムカつく人間に出会っても、避けるどころか、悪役のモデルとしてじっくり観察させてもらったりする。

 むかしは「親孝行、したいときに親はなし」だったが、今は「親孝行、したくないのに親がおり」らしい。いずれにせよ親の介護は父母につき一回かぎりで、亡くなってから悔やんでもやり直しはきかない。在宅医療に従事していたとき、老いた親を厄介者扱いし、不機嫌になっている息子や娘を見ながらよく思ったものだ、あなたたちもいずれこうなるんですよ、と。老親を大事にしないと、自分の子どもたちもそれを見ているから、同じことを繰り返す可能性も高い。であれば、老親を大事にすることは、自分たちもまた大事にしてもらえることにつながるということだ。歴史は繰り返すではないが、介護は繰り返す。今やそれはどの家庭にも余所事ではないはずだ。

 医療が進んだおかげで、多くの病気が克服され、長生きの人が増えたのは喜ばしいが、長生きとはすなわち老いることで、認知症の問題も介護の問題も、すべて長生きがもたらしたものだ。そう考えると、医療の発展にも光と影があると言わざるを得ない。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!