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第13回

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 尚吾は一瞬、思考の綱から手を離そうとしている自分がいることを自覚した。そしてすぐに、こうなってからが本番なのだ、と、周囲に並ぶ顔を冷静な気持ちで見渡す。すると、自分がいま同行しているのが、かつて共同監督を務めていた紘でも、泉を始めとするサークルの後輩たちでもなく、憧れの鐘ヶ江組の面々だという事実に、脳が新鮮に驚き直すのがわかった。

「監督」

 占部(うらべ)が、渋い表情の鐘ヶ江に声を掛ける。

「どちらかの目線というわけではなく、引きで撮ってみる、というのはどうでしょう」

「引きで?」

 鐘ヶ江が、占部に聞き返す。

「はい。そうすると、これまでどちらかの目線で捉えてきたシーンの連続だったところに、視覚的な刺激が加わると思うんです。引きで撮ることによって二人が物理的にも離れ離れになっていくところが強調されるので、そういう意味でも効果的かと」

 占部の提案に、「なるほど」と呟いたきり、鐘ヶ江は腕を組み、黙り込んでしまった。こういうときの「なるほど」は、納得の意を示すものではない。鐘ヶ江組の一員となりまだ日は浅いが、尚吾もそれくらいのことはわかるようになっていた。

 人は選択をすることに多大なエネルギーを費やしている――そんな言説を一般大衆にも知らしめてくれたのはスティーブ・ジョブズだっただろうか。詳細は忘れたが、とにかく、毎日同じ服を着て毎日同じものを食べるタイプの世界的経営者だったような気がする。何かを選ぶということは他のすべてを切り捨てるということであり、その判断を脳が正確に行うことができる回数は一日のうちにそんなに多くはないこと。だからこそ、服装や食事など毎日必ず経る何かで悩むことは極力避け、仕事における重要な選択に有限な判断力を残しておくべきだということ。これらの説を初めて知ったときは、そうなんだ、ほどの納得感しかなかったが、早朝から撮影を続けた日の終盤、まさに今のような状況になると、その言葉の真意が身に染みてわかる。

 ラストシーン、雨上がりの夕暮れ時、水に濡れた街並みの中、向かい合っている二人の男女。別れることを選んだ男と女が、互いに踵(きびす)を返し、それぞれ歩き出していく。背を丸めて歩く彼氏のほうは暗い気分を引きずっているように見えるが、逆方向に進む彼女の姿からは不思議と、離別の哀しみよりも未来への期待が見て取れる。

 それを、どう表現するか。今の議論の焦点は、そこだ。

「浅沼(あさぬま)はどう思う」

「そうですね」

 鐘ヶ江に名前を呼ばれた浅沼が、いつものようにあくまで落ち着いた口調で答える。

「今回は監督の映画じゃなくて企業のCMなので、やっぱり女の子が、こう、晴れやかな気持ちになっているのがわかりやすいほうがいい気がしますけどね。あんまりクリエイティブに寄りすぎても、この映像の視聴者には伝わらないのかなって」

「でも」

 占部が、ぐいと会話に入ってくる。

「俺は、企業案件だからって、いつもの監督らしい演出から雰囲気を変えるべきじゃないと思うんです。先方も國立(こくりゆう)さんも、鐘ヶ江誠人印の映像を期待してオファーしてくださったんだろうし。監督も、実はそこがずっと腑に落ちていなかったんじゃないですか。今日、表情がずっと硬かったので、ちょっと気になってたんですけど」

 尚吾の視界の片隅に、今回のCMの主演を務める國立彩映子(さえこ)の姿が一瞬、映り込む。まだ二十歳を過ぎたころとは思えない雰囲気を放っている國立は、その年齢ですでに鐘ヶ江作品に三本出演している。そのうち一本は十六歳のときに主演を務めたもので、海外の映画祭でも高い評価を得た。

 いま鐘ヶ江組が担当しているのは、とあるファッションブランド公式サイトのトップページで展開されるショートストーリー、そしてテレビや他のWEB媒体で流れる様々な長さのCMだ。広告会社の担当者が直々に事務所に挨拶に来るという熱のこもった形での依頼だった。通常、だからといって首を縦に振るわけではない鐘ヶ江だが、今回はそのブランドのミューズを國立彩映子が務めているという点が大きかった。しかも、鐘ヶ江監督の起用を最も強く希望しているのはその國立彩映子だという話だったのだ。國立と鐘ヶ江のタッグは日本の映像業界では鉄板の組み合わせとして知られており、鐘ヶ江自身も、素材の輝きは十分だが実力は未知数との評判が多い國立を最も魅力的に撮ることができるのは自分だという自負を、少なからず抱いている。

「まあ、占部君の言うことも一理あるよね。私のはあくまで、監督補助じゃなくて一般視聴者の意見だから」

 浅沼はこういうとき割とあっさり身を引くのだが、それは、自分は占部や尚吾とは違いあくまでスクリプターだという自覚が強いからだろう。カットごとの情報を細かく記録することで繋がりに不自然な点が生まれないようにするスクリプターという役職は、本来、今のようにクリエイティブな分野に意見を求められるようなポジションではない。だが、シーンごとの情報を細かく記録していくという業務上、鐘ヶ江との物理的な距離は常に近い。そのため、人の意見を聞くことを好む鐘ヶ江に、まるで監督補助の一人のようにカウントされてしまうことが多い。

「なるほど」

 また、鐘ヶ江の“なるほど”が差し込まれる。視界に入るスタッフの表情が、少しずつ、うんざりした温度を伴っていくのがわかる。最後のシーンの演出について占部が鐘ヶ江に疑問を投げかけてから、もう二十分近く、撮影は止まっている。

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